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まってました。卑弥呼も待ちくたびれたと言ってました
ありがとうございます。次回また卑弥呼様のもとを訪問します。よろしくお伝えください。
安心院(あじむ)の宗像三女を祀る「三女神社」の遺跡、弥生後期の高貴な子供の遺骨ばかりが出てきます。恐らく安心院は安曇族の大奥(子育ての場所、足の院)が宇佐の原型だと思います。妻垣神社(足一上謄宮は、神武天皇が玉依姫(お母さま)を訪ねた場所)でもあり。大奥の原型が見えます。ホツマツタエの中筒にも合致します。まさに比売大神の地ですね。
そうですか。安心院・安曇・玉依姫・宇佐・・・と。出雲口伝とは内容が異なりますが、宇佐にはやはり何かあるのは間違いないですね。
なるほど、いい勉強になります。
ありがとうございます。
いつも楽しみに拝見しています。私も昨年初夏に福岡県と大分県を駆け足で回りました。卑弥呼と鏡についてはほぼ同意見です。引き続き道中お気をつけて頑張ってください!
ありがとうございます。うちの旅は「長旅」です。どうか飽きずにお付き合いよろしくお願いします。
台湾の動画も良かったですが、「古代史探索」の動画を待っていました。以前の動画で三角縁神獣鏡と古墳の年代の関係を明らかにされていましたので、今回の考察も理解できました。私としては東征のモチベーションがどこにあったのか興味があります。敵から逃げるためなのか、それとも豊かな新天地をみつけてニュータウンに移住したのか?
お待たせしました(笑)。東征のモチベーション。継続した東への移動は、北部九州の過密だろうと思っています。各地域の王位継承はきっと熾烈でしょうし、敗れた皇子達は自ずと東へ流れていくのだろうと思います。ただ、弥生期週末の移動は大規模だったハズです。それまで畿内に無かった王権が一気に立ち上がる訳ですから。やはり北部九州に起こった倭国大乱が起因となって、大規模移動が行われたのだろうと思います。卑弥呼が手を焼いた狗奴国の躍進も可能性がありと思っています。
「大胆」と謙遜されていますが、かなり妥当性のある説だと思います。一連の『古代史探索の旅』を拝見していると、魏志倭人伝や記紀などの文献資料および考古学的研究成果にかなり通暁されているだけではなく、その知識を基に神話と史実の関連性を論理的な明晰さを持って分析推論されていることに感心しています。さらに、それを実地見聞で確認されるという余裕と行動力には羨ましささえ覚えます😊邪馬台国連合を起点とする東遷は饒速日命と神武天皇(イワレヒコ)の二系統があったこと、饒速日の大和への派遣は邪馬台国の臺與の時代に行われ、当時の邪馬台国の中心は筑紫平野から宇佐神宮がある豊の国に移動していた、などかなりの確度で正しいのではないかと思います。前方後円墳の北九州発祥説や卑弥呼の居所の日田説も有力説だと思います。邪馬台国が北九州にあったことは考古学的証拠からもほぼ確実であり、現在、纏向などの大和説がマスコミなどで持て囃されているのは大きな誤謬でいずれ否定されると思いますが、邪馬台国や卑弥呼の詳細については今後のさらなる発見や研究に期待しています🚴
ご賛同頂けて嬉しいです。でもちょっと誉め過ぎでは?(笑)。邪馬台国の所在地が確定するには、卑弥呼の墓が発見される必要があると思いますが、もしこれが宇佐神宮の境内地内なら無理でしょうかね。今後ともよろしくお願いします。
唐揚げは やはり豊葦原の中津国産ですね。最高です!
同意です。間違いないです(笑)。
正しい推論と思います。
貴重な考古学資料を見せていただきありがとうございます。西古東進 初見ですが賛同します 豊臣秀吉の由来も九州由来かな
ありがとうございます。豊臣の由来は知らないですが、豊__は愛知県に多い印象はありますね。西古東新はオリジナル造語です(笑)。
お待ちしておりました。いつも楽しく拝見しております。しかし昨日、見逃したみたいデス😅やはり中津の唐揚げいかれましたネ。中津市内から、宇佐まで古代の道があったそうですよ。どの辺りで桜と出会うのでしょう🌸先は長そうですネ。
中津の唐揚げ美味しかったです。ただこの旅は、サクラ前線とは出会わないかも知れません。
貴台のチャンネルでコメントしたか記憶が定かではないのですが、邪馬台国が国ごと北九州に移動した話は私も持っている説です😳卑弥呼が直接的か間接的か分かりませんが、なにかしら戦の影響で亡くなり(自説:高齢だったため戦の心労によるもの)台与が女王に即位すると同時期に安全な北九州に国ごと移動(避難)したのではないかというものです。福岡県内で邪馬台国を匂わせるような出土品が多く発見されるのはそのためと考えれば合点がいきます。ただ、その後台与の一族が畿内に移動したとまでは考えていませんでした。これは私の知識不足によるもので、そこまで考えが至らなかっただけの話なのですが・・・邪馬台国からヤマト王権へは直接的流れってことですか❓台与は『倭国王』だったと❗☝😳すると、箸墓古墳は台与もしくはその子供の墓という可能性もあるってことでしょうか❓なんか話がずいぶんと大きくなってきてワクワク感があります✨👍😁私も中津でから揚げ食べましたけど大したモンじゃなかったです。普通のから揚げでした😅耶馬渓は期待したほどじゃなかったけど、ダムは凄かったです✋🤩🤚ステキ💞
話を随分大きく盛ってしまい恐縮です。でも台与の一族が東征した可能性はあると思っています。もちろん箸墓もそういうことかも知れません。「唐揚げ大したモンじゃなかった」、「耶馬渓は期待したほどじゃなかった」それは言ってはいかんことバイ。我々RUclipsrにとっては。
中津唐揚げは本物ではありません。本物は唐揚げを始めたしょうすけさんが住んでた四日市唐揚げです‼︎
宇佐旅したくなりました ( ・ิω・ิ)✨あと、小迫辻原遺跡とか、吹上遺跡も見て帰りたいですwww
是非行ってみてください。特別な気持ちで行くと、特別なことが見えて来るような気がします。
岡山平野にある近所の前方後円墳は高い木々が繁り、近くで見ると元の形が解りにくいのですが、この赤塚古墳の画像を見ると不思議な感覚になります。
そうですね。古墳時代の当時の王達の墓も、1500年経つと色んな姿になる訳ですね。近所の霊園も1000年後にはどうなっていることやら・・・
仮説、おもしろいです🤩
良いですねぇ(^^)私もカズさんの説に賛成です。やはり卑弥呼は北九州でしょう。宇佐も枠範囲。ただ台与(豊)系は丹後へ、別系が倭へ東遷した可能性があるかなって思ってます。余りにも丹後には豊日女関連の説話(神社)があるから・・まぁ本当に古代史は良いですね。台湾に続きまゆさんの食レポ!楽しみにしております。
かずさんが編集でカットしないよう見張っておきます(笑)
丹後の豊日女関連の説話。了解しました。豊岡方面でしょうか?いずれ丹後はまた行きたいと思っていますので、その時には下調べします。食レポもたくさん撮ってるんですが、「また喰うんかい」という声が聞こえそうでボツも多いです。美味しそうな上手な食レポが撮れたら報告します(笑)。
宮津市周辺ですかね。籠神社にも豊受大神の名がありますし、丹後国風土記にも羽衣伝説として豊宇賀能売命の名が出て来ます。台与の存在感を考えると倭の百襲日女や豊鍬入日女より関連がありそう!と思ったので・・何しろ浅学なので曖昧ですみません(^^)
ありがとうございます。豊受大神を忘れていました。籠神社も行ったのですが、古代史もかじり始めの頃で、天橋立や伊根に行って楽しんでいました(笑)。確かに宮津周辺は古墳が多かった、という看板での印象があります。丹後は再調査要ですね。
いつも楽しく拝見しています。ありがとうございます。大分県在住です。うちの近くにも九州最大級の古墳がいくつかあります。御塔山古墳は5世紀の前方後円墳、小熊山古墳は3世紀での円墳です。市の財政状況が悪いためか、なかなか整備されず残念です。福岡県の糸島の博物館に最大の鏡がいくつもあるのはご存じですか?伊都国歴史博物館です。日本最大の銅鏡『内行花文鏡』です。私も初めは、九州にあった都が、奈良の方に移ったと考えます。そのころ、大分県の別府、鶴見岳の大噴火があって、移動せざるを得なかったのではないかと思います。大和筑豊説の福永晋三さんの説にもかなり説得力がありますよね。
こちらこそコメント頂きありがとうございます。大分にはまだまだありそうですね。今回の訪問で、正直認識を新たにしました。伊都国歴史博物館は行きましたよ(笑)。あの鏡にはびっくりぽん!でした(古)動画にもまとめています。ruclips.net/video/8ycasej7InU/видео.html
@@これはどうでしょう ご丁寧に返信して下さり、ありがとうございます。早速動画見させていただきます。古代史の謎、これからも、追ってください。よろしくお願いします。楽しみにしています。
了解しました。こちらこそよろしくお願いします。
いつも面白く拝見しています。神武東征の話は歴史編纂書である日本書紀、古事記、遡れば記紀に記載されている多くの歴史家があれは神話で正確な歴史として無視するような事が多くありました。しかしながら、天皇の始祖である神が九州から東征したとその当時の歴史編纂者が当然の如く記載したというのは、それが古くから皆に当たり前の事実として認められて居たのでしょう天皇の出自が仮に奈良であったのなら政治的にも記載を削除したかもしくは天孫降臨は奈良となるはずてすし…
私も記紀編纂時の天皇家の祖先が九州から来たのだろうと思っています。ただ、記紀に書かれていることは不正確だろうとも思っています。
北九州に卑弥呼はすんでいて、お墓は宇佐神宮ですか!
そうかも知れませんね。
今回も面白く拝見させていただきました。恐らくその通りと思っております。トヨの本拠地は宇佐であろうと思います。(宇佐神宮は墓の上に建てられてると以前から言われてます)。そしてその直系皇子のニギハヤヒが第一次東遷の主役でしょう。年代的にも合います。ニギハヤヒとニニギは兄弟で、ニギハヤヒがまず安芸や吉備に移住して拠点を作りその後大和に攻め込んだのでしょう。その後に同じ天孫族のニニギの子孫である神武が宮崎日向から大和への第二次東遷が行なわれたととすれば、すんなり安芸、吉備に入れた理由も説明できます。東遷の理由はこの頃大分の鶴見岳の噴火が有ってます。この地区はその前に由布岳や九重連山も噴火しており、その影響もあったのかもしれません。
なるほど、神武東征がその後の話であれば、宮崎の古墳時代の年代感が合います。一方、火山活動に言及される方は多いですね。どれ位の規模の活動がどのあたりに影響したか、不勉強でよく知りません。宇佐方面の遺跡からいくと、赤塚古墳の後の王達は脈々とその地で繋がっているようです。
実は火山活動が気候におよぼしたであろうという学術文献はすでにあります。弥生時代後期180年頃極寒冷化し一旦温暖化に戻りますが再び寒冷化に向かい300年前後で極寒冷化し再度温暖化に向かうとなってます。これはそれぞれ倭国大乱の時代と神武東征の時代と重なります。そして由布岳、鶴見岳、九重山の噴火の時期とも重なります。さらに火山灰の降灰は主に東側が大きく瀬戸内海や四国の沿岸部は川がせき止められ稲作ができなくなりその時代に高地集落が形成されてます。英彦山系の今川(旧犀川)は降灰で流れが変わり本来遠賀川に合流してたものが京都郡から行橋に変えられてます。新羅国本紀にも2世紀後半(193年)倭人が大飢饉により食を求めてきたとあります。アマテラスの天岩戸事件も火山噴火のことではないかという説もあり、物部の東征は被害の無かった地域を植民地化し九州北部に食糧を運ぶためだったのではないかとのことです。ついでに神武の別名は祖父と同じ彦火火出見尊、何で名前にこんなに火がいっぱい入ってるのでしょうね。
火山活動が気候と地形に及ぼした影響が、ある程度わかっているのですね。勉強になります。一点疑問に思ったのは、「物部の東征は被害の無かった地域を植民地化し九州北部に食糧を運ぶためだった」であれば、その後AD300年頃以降も北部九州が広く日本を統制下に置いたでしょうが、その痕跡を感じられません。
それは北部九州に居るより大和の方が自然災害も少なく日本統制するのに都合がいい場所と東征を行った当事者達が思ったからでしょう。そこから大和朝廷が始まったのでしょう。交易が活性化したので、この時代に庄内式土器が九州に入ってきたはずです。でも地元に残った人も多くいたと思ってます。なかなか祖先を祭る自分が生まれた土地を捨てられないものです。そのうち本家より大和に移った分家の方が強大となり、北部九州の本家は大和分家に頼るようになったと考えてます(もともと本家は魏を頼ってたが、中国がそれどころではなくなったので、その代わりとして大和朝廷を頼ることとなった)。当時は九州王朝は大和朝廷にとって覇権を争えば一番強力な相手であったはずなのに過去に争った形跡がありません。つまり景行天皇の九州征伐は北部九州本家の依頼により大和朝廷が動いたということだと思います。磐井の乱も勢力を拡大してた狗奴国の子孫の最終的な討伐だと思います。だから天皇家はこれほど宇佐神宮を大切にしてるのではないでしょうか。まだ応神天皇の出目が確定できてないので何とも言えませんが…。
了解です。そういうことであれば、同感です。ある時期以降、北部九州と大和が同期したように思えますね。大和目線で見れば、中国の冊封が解けた半島南部で、本家が持っていた半島・鉄利権を共有できた訳ですから、大和が急激に発展することも理解できます。「景行天皇の九州征伐は北部九州本家の依頼により大和朝廷が動いた」というお考え・・・興味深いです。まだこの頃への思考が出来ていないのですが、念頭に置いて思考させて頂くことにします。
私も、邪馬台国、北九州説です。特に宇佐説です。それに東遷説も昔から変わりません。もう、数十年になりますが、微動だにしていません。この動画内容にも同調できます。これからも励んでください。応援します。
勇気づけられるお言葉、有り難いです。この旅で宇佐から日田に入りましたが、中々の山道で、1800年前なら陸行1月のルートかな、と感じました(笑)。
@@これはどうでしょう ご返答ありがとうございます。このところ、この動画の影響もあって、数日、邪馬台国について考えこんでいます。今、神武東征のことで悩んでおり、混乱もしています。というのは、古田武彦の主張である日向北九州説、いわゆる、糸島の日向峠辺りからの東征ではなかったかと思い始めたからです。その方が理にかなっています。しかし、そうなると、一つ問題なのは、神武天皇と兄の五瀬の命が東征について話し合ったという高千穂の宮です。ある人は、それを英彦山神社に当てていますが、どうなんだろうと思っています。この古田の日向峠説だと、宇佐説にとっても有利になるのです(ニタリ😁) こういう内容があります。『書紀』には「筑紫の日向」と表現され、『古事記』でも「竺紫の日向の高千穂」、「この地は韓国(からくに)に向ひ、……、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」と書かれてあり、こうした地理的状況に筑前海岸部は合致する。西区と糸島市との境界あたりには日向峠・日向山や槵触(くしふる)山の地名も残る。 というものです。 ここから神武は出発したというのです。どう思いますか?
ご示唆されている説話については諸説ある中で、私の考えも定まりません。「筑紫」が福岡平野~糸島周辺とすれば、日向は日向峠周辺に、筑紫平野を中心とした北部九州とすれば、日向は英彦山から日田に、さらに、古事記に建日向日豊久士比泥別(の国)とある肥の国とすれば、高千穂にもなると思います。神武東征がいつの時代の何を指すのか、古代史の一つのキーワードですね。
@@これはどうでしょう はい、おかげで、邪馬台国の関心が復活しました。色々分かってきました。感謝してます。これからも、ご検討祈ります。非常に参考になっております。こちらも分かったことは、出来るだけお知らせするようにします。
@@bluemoutain5675 さんそれはよろしゅうございました。今後ともよろしくお願いします。
やっと動画視聴出来ました。待っておりました。宇都宮の餃子談義も聞きたいけど、やっぱり古代史ですよね。 中国語の単語には、宗女と検索しても該当する単語はでできませんので、魏志用語での単語を考察するのが楽しくて主の動画にピッタリの意味がありました。(宗)、芸道の家元。!前方後円墳と言う芸道(技術)の家元が、九州!(笑)(宗)は、目的の意味や、宗派、同じ宗教の意味もあるので、卑弥呼以死、、、、宗女壹與、、、(政)は、卑弥呼が死んで墓も出来たから、同じ宗教・前方後円墳の芸道の家元である訪問の目的の壹與に会いにきた?こんな感じですかね?ただ、東近江市の神郷亀塚古墳が、古さでは一歩リードしている調査報告書もあり、垂仁朝に天日矛の技術者が近江に居住を許された伝承があるので、半島南部の倭人と北部九州の人が移住?それって300年頃の九重火山の噴火のタイミングでは?成層圏まで火山灰が噴火したらしいですが、半島南部の倭人と北部九州の倭人なら御近所さんだから、畿内の倭人とも仲良く暮らしたんでしょうね? 魏志は中国の歴史書ですから、中国の辞書を使わないと、、、酷→中国語・カッコイイ・日本語・ひどい。。ですから(笑)
お待たせいたしました。私は中国語は苦手なので、台湾ではまゆさんの案内にそのまま乗っかってました(笑)。天日矛・・は重要人物ですね。逸話がいつの時代の話なのかも、まだ考えが持てません。神郷亀塚古墳はWikiで見ると確かに3世紀前半とありましたが、根拠とされている弥生時代後期の土器を知りたいところです。前方後方墳の分布も興味津々です。近江の辺りは彦根城くらいしか行ってないので、全く土地勘がありません。要調査地帯ですね!
@@これはどうでしょう 様。経済効果の為!調査旅行ガンバリましょう。私も結構旅行先でお金使うようにしてるんですよ。店は個人経営限定にしてますし(笑)主の動画は、勉強になるので、末永く奥さんと続けて下さいね。松坂・伊賀・近江は、肉ですから、ちょっと高いかも?(笑)神郷亀塚古墳の遺跡調査報告書、検索すればダウンロードできるかも?です。【簡易版はすぐにありましたよ】私は、wikは利用しないのでよくわかりませんが、遺跡調査報告書なら、PCにダウンロードしていっぱいに(笑)整理の方法考えてる最中なんです。今のままでは、ただのアイコンですから(笑)
了解しました。ありがとうございます。「神郷亀塚古墳の遺跡調査報告書」検索してみます。次回は近江牛の店ですね。年金貯金しておきます(笑)。
@@これはどうでしょう 様713年に瑞祥地名で名前変わったと思いきや、地名標識見る限り残ってような気がします。そんな古代地名も楽しみながらドライブをしているんです。近江・伊賀・松坂の御肉最高です。霜降りは、口でとろけます。
私も旅先での地名妄想大好きです。筑後国あたりで「福童」なんて地名があった時は、一人でニヤニヤしました(笑)。
宇佐神宮が伊勢神宮と並ぶ宗廟として敬われたのも、畿内に移入した後のヤマト王権・天皇家にとって神聖視されるべき特殊な事情があったとしか考えられないです。御神託事件も、なぜ畿内から近い伊勢ではなく宇佐まで聞きに行ったのだろうか?石清水八幡宮、壺井八幡宮、鶴岡八幡宮・・・清和源氏(特に河内源氏)も宇佐の八幡神を氏神として最重視したのも、応神天皇を神格化しただけとも考えにくいです。応神天皇が宇佐に祀られてる理由もよく分からないです。現在でもFlagを旗と言いますが、蚕・絹生産・機織りの技術と関係あるのかもしれません。古代の服部氏などの部民・職掌氏族やハタ氏(秦氏)に関係してるのかも。曹操級の鏡が出土した日田とも近いですね。
色々と疑念を沸かせてしまい・・・嬉しい限りです(笑)。何故、八幡なのか。何故、応神天皇を追祀したのか。出雲口伝にはその説明もありましたが、自分の中ではまだ???も残っているので、紹介できていません。いづれにしても、神功皇后、応神天皇のあたりの記紀の記述も大いなる「裏」を感じますね。
邪馬台国のロマン、素晴らしいです。自分も、日田から宇佐にかけて、大きな国があったような気がします。卑弥呼の可能性。宇佐神宮そのものが、亀山古墳の上にあり、宇佐神宮の下には、謎の棺があると言われています。また、卑弥呼が亡くなった時に、従者が、百人、殉教し、埋葬さらたと言われています。そういった部分から言えば、宇佐神宮の付近に、そはの可能性はお宮だったか、あります。あと、もう一つ、可能性として、考えられるのは、耶馬溪です。一つ、参考になるのが、宗像市です。宗像市には、占部姓を持つ人が多く。これは、平安以前に、職業イコール、名前の時代に、出来た名前です。あと、邪馬台国の属国に、句奴国があります。最近、世界遺産に登録された、沖ノ島遺跡と、関連古墳群の中に、奴山古墳があります。ある面、名前から、探ると、面白いと思います。だから、邪馬台国の属国の一つに、今の、糸島地方があります。それと、近畿説。恐らく、違うと思います。それは、属国な管理から考えると、近畿から、九州を管理すること自体に、無理かあるからです。そして、中国等との交易。それを考えても、九州説が正しいのではないかと思います。確かに、移動行程等の記述。それを、直線距離に換算してるのではないか。あるいは、山があれば、山道を行かず、迂回した可能性もあるます。だから、近畿説は、最大、移動距離から考え数字です。しかし、実際とは、違っている可能性があると思います。
宇佐神宮の謎ですね。社殿の建て替えでもなければ、発掘されないでしょうね。宗像方面は一度見学に訪れただけで、もっと詳しく勉強したいと思っています。
やはり、宗像市から、福津市方面は、重要と思います。それは、昔の、航海技術から、島伝いで航海していたことから、途中、目印になるのは、壱岐対馬や沖ノ島等、比較的、目印が多いからです。まあ、一つの、属国過ぎませんが、重要な手掛かりがあるかもしれません。それと、興味深いのは、帯方という記述にも注目です。そして、宗像。ただ、今の、宗像という文字で表し始めたのは、西暦998年からです。それ以前は、胸に肩や形等、あったようです。また、昔の領地からも、大内氏と、宗像氏と、分断されていた経緯もあります。そして、今の、福津市。宮地岳神社は、大内氏の領地だったようです。また、宮地岳神社の奥の院自体、古墳です。ただ、中国からの使者が、どういった経路を辿ったのか。一つの、参考になると思います。
航海の観点から沖ノ島祭祀が重要だったのですね。宗像大社の宝物殿にあった数々の宝物がそれを語っています。時代背景を上手くとらえて、有効な手掛かりにしたいと思っています。
九州から奈良へ都が移った時点で卑弥呼が神になったと考えます。この考えは私もかねてからほかのページで訴えている内容に合っています。ついでに多くの人たちが(い与)と読んでいる中で、台与を(トヨ)と読んでいるのに(邪馬台国)をヤマトとなぜ読まないのかと思います。
イヨ/トヨ、ヤマタイコク/ヤマイチコク/ヤマトコクの読み方に定説はないと思っています。
大賛成、同意見です!さらに言えば政庁は日田あたりに移動したのでは?倭国大乱もあったりして。しかも日本で唯一、鉄鏡が発掘され、しかもあの曹操の墓から同じ鉄鏡が発掘された!!!卑弥呼の墓と出身地は宇佐(神宮)なのでは?確かに宇佐神宮は小高い丘に成っていて部分的に角度の急な坂も有るし!!!
日田は確かにとても興味深いですね。あれだけの鏡が出ていて、誰も卑弥呼の話をしていなかったのが不思議です。これから日田に入ります。ご期待下さい。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、奈良県には大和政権があり都が京都に遷都されるまでの間長く 5:30 歴代天皇がいらっしゃいました。 又初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
@@古屋公夫-s9s それだとヤマト王権の初代天皇(王)は神武ではなく卑弥呼になりますよ?…所謂 魏史倭人伝は二世紀から三世紀 辺りの書物でしょ? 初代 神武天皇の即位は紀元前なので………
ハムチーズ2回目?か3回目の投稿です。久しぶりに明快な論法で、モヤモヤを払拭してくれました。こうした論理的な展開を、今までの学者さんたちは何故してこなかったんでしょうか?在野の「これはどうでしょう」さんの方が、自ら歩いて回って調べた推論なので、かなり説得力があります。今回のシリーズの数回前で出雲口伝も初めて聞きましたが、いろんな観点から今後もどんどん新説を繰り出してください。
ご評価ありがとうございます。私は興味本位に自分の考えをご披露しているだけで、専門家の方のように広く深い知識はありません。また、考古学に携わっておられるすべての方々の、気が遠くなるようなご苦労への敬意も忘れてはいけないと思っています。ただいつも、自分が納得できる答えが欲しいと思い、妄想することは大好きです。今後ともよろしくお願いします。
ご教示ください。神武東征が280〜290年頃とすると、饒速日の東遷は西暦でいうといつ頃でしょうか?
それでいくと3世紀中庸頃ということになると思いますが、記紀の通りでない可能性はあると思っています。
鉄製武器の変遷も広形銅矛と同じでしょうか?同様に年代と出土時期のグラフに落とし込んでいただければもっとわかりやすいのですが、
以前、弥生期の鉄鏃や鉄剣の分布を掲載したことはあります(Ⅲー第1話)が、時期ごとの分布となるとさらに調査が必要そうです。調査継続します(笑)。
鉄製の武器の変遷は、北部九州の勢力が出雲や大和を制圧するのに重要なファクターと思ってます。専門家の方たちは、青銅器と鉄器が同時期に入ってきたとおっしゃてますが本当でしょうか?青銅器は武器には使えませんが、鉄器は武器として重要だと思います。その変遷をたどった論文を見つけることができません。宜しく御願いします。
北部九州でいうと、青銅器の方が幾分早いのではないでしょうか。鉄剣が入る前、銅剣も立派な武器だったろうと思います。調査継続します(笑)。
古代史探索まってました。宇佐説宇佐神宮ついて詳しくはまた、述べても良いでしょうか!。神武東征は、実質てきには、286年頃に武内宿禰が東征していますね。書紀は、武内宿禰を歴代大王に何百年も仕えたとして架空の存在のようにして隠しています。台与と武内宿禰は夫婦ですね応神天皇は孫位にあたります。武内宿禰と応神天皇か名前を入替えています。ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国こしのくに武内宿禰と共に(北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神ヒケノオオカミにお参りになった。そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神イザサワケノカミといい、太子を誉田別尊ホムタワケノミコトと名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神ホムタワケノミコト、太子のもとの名を去来紗別尊イザサワケノカミということになる。けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。 (この言い回しは、ある説と云いながら記録はないとしおきながら詳しく書いているのに変な話である。)編者は、暗喩しているようである。
どちらの説か分からないのですが、応神天皇のすり替わり説とか、出雲口伝とも似ている部分もあるように思います。いろんな説があって、なかなか楽しめる時代ですね。
@@これはどうでしょう 「大神のもとの名を誉田別神ホムタワケノミコト、太子のもとの名を去来紗別尊イザサワケノカミということになる。」 (名前を入替え)は、この説は、日本書紀の記述です。
そうなんですか!名前入れ替えを公言するとは、何か事情があったんでしょうね。
@@これはどうでしょう 日本書紀古の人は、弓の鞆のことを、「ほむた」と言った。ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国(こしのくに)(北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神(ヒケノオオカミ)にお参りになった。そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(イザサワケノカミ)といい、太子を誉田別尊(ホムタワケノミコト)と名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神(ホムタワケノミコト)、太子のもとの名を去来紗別尊(イザサワケノカミ)ということになる。けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。古事記気比大神の条そこで武内宿禰(たけしうちのすくね)は、その皇太子を連れて禊(みそぎ)をしようとして、近江(おうみ)および若狭国(わかさのくに)を巡歴した時、越前国(えちぜんのく)にの敦賀(つるが)に仮宮を造って、そこに住ませた。ところがそこにおられる(ホムタワケノミコト)伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)命が、夜の夢に現われて、「私の名(誉田別神)を御子の御名に変えたいと思う」と言った。そこでその神を祝福して申すには、「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名誉田別尊(ホムタワケノミコト)をいただいて名を変え申しましょう」と述べた。この説は、実質の大王武内宿禰が正当の誉田別尊(ホムタワケノミコト)こと応神天皇に名前を授けた儀式であると解釈できるようです。なお、架空の神武東征は、実質的には、283年の武内宿禰(266年のその後台与と爵位を受けた男王・狗奴国王)の東征(出雲国から北陸東国畿内を占領する。素戔嗚尊こと崇神天皇→大国主命饒速日物部氏が畿内勢力である。)です。台与とその子孫の応神天皇は、女王国(邪馬台国)の後継と狗奴国の紀氏武内宿禰の血統として九州倭国に残っています。その後倭の五王(讃)→継体朝→大友氏→物部氏・蘇我氏馬子(アメノタリシヒコ大王推古傀儡畿内(日出天子隋へ)難波宮に遷都600年-607年頃)・蝦夷・(皇極天皇架空)乙巳の変入鹿 ・孝徳→斉明→白村江の戦中大兄近江大津遷都→天武天皇(用明天皇の孫(高向王)(光徳天皇?)と斉明宝皇女の漢皇子・蘇我連子大臣)へと続く。(私説仮説その間のことは最っと詳しいのですか゛略します。)
途中で・・・「武内宿禰(266年のその後台与と爵位を受けた男王・狗奴国王)の東征(出雲国から北陸東国畿内を占領する。素戔嗚尊こと崇神天皇→大国主命饒速日物部氏が畿内勢力」あたりで、ちょっと分からなくなりますが、私説ご披露ありがとうございました。
釣りどうでしょう😊さが
釣よか、もありますね @さが
参考までに、かの津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。
ご教示ありがとうございます。参考にさせて頂きます。
赤塚古墳から宗像大社85.02 km(52.83 マイル)85.03 km(52.83 マイル)291.89 km(181.37 マイル)八倉比賣神社 磐座 34.055902, 134.464588239.37 km(148.73 マイル)出雲大社本殿中央34.33 km(21.33 マイル)市杵島 姫降臨・・・33で完璧確定〒873-0032 大分県杵築市奈多 奈多宮の市杵島〒779-3127 徳島県徳島市国府町〒872-0101 大分県宇佐市高森8008 7211 8 358救世主シロ 88神はINRI神マイルは8神の復活 85王 奈多宮87332・・・33観音数と二種復活数7332現地の映像ありがとう 伊勢神宮125社の25即決となりました ウカノミタマです
何か深い考察なのか、私にはよく分かりません。
賛同致します。反論コメント少ないですよー仮説→本説になっちゃいますよー
ご賛同ありがとうございます。仮説も証明できなければ・・・ですが、反論来ないと調子に乗っちゃいますね(笑)。
前方後円墳は何種類があるみたいです。福岡周辺タイプ(那珂八幡古墳含む)、四国タイプ、一般的な大和王権タイプ。畿内の古い前方後円墳も那珂八幡古墳もほぼ同時期の可能性があります。このことから畿内の大和王権と邪馬台国の関係が興味深いですね。私の考えは初期は連合国家、最後は敵対して大和王権が邪馬台国を滅ぼしたと考えております。仮に大和王権に邪馬台国の血筋が含まれているならば古事記、日本書紀に邪馬台国は明記されていると思います。魏志倭人伝にはイト国の一大率や奴国などと邪馬台国が敵対していたとは書かれていませんので連合国家の一部と考えて良いのかなと。後に大和王権が宇佐神宮を作った意味を考えると、邪馬台国を滅ぼした穢れを鎮めるためなのかなと、、、。そして比売大神は卑弥呼とトヨなのかなぁ。あとこの頃の人達はトップの人間が亡くなると穢れから逃げるために移動する習慣が有ったのかもしれません。大和王権(大和朝廷)は持統天皇までは天皇が崩御すると移動していたようです。
コメントありがとうございます。私も邪馬台国とヤマト王権の創始期が深く関係しているだろうと考えています。ただ私は日本書紀に邪馬台国が明記されていないのは、記紀編纂時にすでに邪馬台国どころか、ヤマト王権誕生の頃の大和の記憶が無くなっていたからだと思っています。それは、誕生期に築造された大和盆地南東部の6基の超大型前方後円墳の築造順と、記紀にある大王達の即位順が合致しない、という考古学上の見解による為です。その後の河内の仁徳天皇陵なども同様です。
@@これはどうでしょう レスありがとうございます。少なくとも古事記日本書紀が編纂された頃の大和朝廷は大陸の記録に邪馬台国と卑弥呼が載っていたことを把握していたと思います。その証拠に神功皇后をいかにも卑弥呼と思わせるような記述になっています。邪馬台国の位置や古墳の埋葬者は忘れられたという説はその通りかもしれませんね。でもあれだけ大きいお墓の御先祖が解らなくなるのも可哀想ですねw
記紀編纂時の朝廷は、魏志倭人伝は所持していただろうし、纏向辺りに大きな墓が残っていることも意識していたけど、今の天皇家とどう関わっていたのかがわからない。だから想像か創作して記紀に書き込んだのだろうと思います。奈良時代に陵墓管理は始めたけども、その後また分からなくなり、元禄のころには崇神天皇陵も分からなくなっていたそうです。神武天皇陵も然りで、江戸末期の文久3年に新たに造営されています。だから当初議論したように、邪馬台国とヤマト王権の創始期が深く関係していたとしても、記紀にはその時の史実が書けなかった訳です。我々の妄想がここからスタートできるのは、長年の考古研究のお陰です。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、第10代崇神天皇を中心として、政治及び祭祀が行われていました。 その後都を京都に遷都するまでの長い間、歴代天皇が奈良県にいらっしゃいました。 又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
記紀をたどるだけでは本当の古代史には行きつかないと思っています。考古学的に初期大和王権の最初の大王墓と言われる箸墓がもし倭迹迹日百襲姫命の墓ならば、それに続く大王墓の西殿塚古墳が第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵ということも大きな矛盾ですし、その後に崇神天皇陵の行燈山古墳がくるというのもまた大きな矛盾です。全く事実を反映していない伝承なのです。邪馬台国大和説の方々には酷な言い方だろうと思いますが、卑弥呼の話などは何の根拠も奈良には存在しないのが事実なのです。
こんな仮説は如何でしょうか❓全国に点在していた縄文集落が徐々に大きな部族集団に纏まってきた頃、九州にはおおよそ北から邪馬台国系、熊襲系、隼人系の集団が形成されていた。 普通、その中に新たに弥生系の人達がやって来た場合、何となくまじりあって同化して行った様なイメージで考えていますが。。。そう言う形の他に、有る程度の人数の集団が渡来して来た場合は、縄文系の手薄な土地に先ず自分達の集落を形成して行ったのではないでしょうか?それが、九州では、河口面積が広くて平地が狭かった為に、邪馬台国本体からは僻地だった遠賀川付近で、その辺りを起点に徐々に上流へ南下すると者、九州東岸沿いに点々と南下して行く者、また日本海沿岸、瀬戸内沿岸に拠点が広がって行きつつあったのでは?彼等は、邪馬台国人の様な海洋系の人達ではなく、どちらか言うと、大陸系・山岳系の人達で山歩きを得意としていた。その中の一派が高千穂から日向に拠点を定めた神武系の人達で、そこから縄文系と同化もしつつ、主に宇佐などの北東部九州の弥生系の部族を纏めつつ東進して行ったのではないでしょうか⁉️彼等が、最終的に邪馬台国を滅ぼして九州全土を、併合して行くのは、もう少しヤマトとしての実力を付けてからの頃ではないではなかった か。(彼等を弥生系のと呼ぶのが正しいのかどうかは分かりませんが、新たな渡来系種族と言う意味で使っています)
面白い仮説ありがとうございます。おおよそそのようなことがあったかも知れませんね。当時は必ず集団ごと移動してきた勢力もあったでしょうから、山岳系の集団もあったでしょうね。課題としては、その人達が優勢になるのに必要な条件がそろうかどうか、でしょうね。
ありがとうございます。 自分自身では綿密な検証など出来ないので、新鮮なご意見拝見しながら自分の中で合理的に見えそうな世界を模索して、無責任に投げさせて頂いています。今ふと思ったのは、記紀の制作者にとって邪馬台国からの継承性を主張する必要があったのだろうか?と言う点です。。。それにしても、ご夫婦のほのぼのとした、歴史探報旅❣️楽しみに拝見させて頂いております🎶
ありがとうございます。「記紀の制作者にとって邪馬台国からの継承性の主張」・・なかったでしょうね。というより、全く分からなかったのでしょう。故に、魏志倭人伝からの話を神功皇后記に入れたのでしょう。ヤマト王権誕生の頃は、邪馬台国と繋がっていただろう、が私の見解です。
宇佐神宮は現天皇家の根幹をなす場所なのは間違いないのですが果たして邪馬台国であったかどうかは今一つ確信できません。というのは神功皇后という天皇家の血筋かどうかわからない方があまりにも大きく奉られてるのが気になります。大抵こういった場合は祟り神です。菅原道真公もそうですし、出雲もそうです。宇佐神宮は応神天皇、神功皇后、比売大神が祭神なのですが、成務天皇、仲哀天皇、ヤマトタケルの尊、神功皇后の方々の世代が同じではと思えます。またそれぞれの関係も今一つはっきりしません。果たして神功皇后は大和朝廷と関係あるのでしょうか。朝鮮出兵は九州の豪族連合が行ったもので大和朝廷とは関係がなかったのではとも考えてしまいます。応神天皇が九州から出兵し大和を征圧したのですからこの頃の九州の豪族の力は相当なものであったと考えられます。大和朝廷からうまく利用された神功皇后が宇佐に封じられたとも取れます。
しかし、豊後地方は、読んで字のごとく豊の居たところでしょ? それは邪馬台国がそこにあっただろうということにもなりませんか?それに、倭人伝では、卑弥呼のいる時代ですから、女王国の東、海を渡る1000余里とある。筑紫、筑豊地方に女王国があったなら、そういういい方はしない気がします。それから国東半島は国の東で、その国は西にあった。つまり宇佐付近でしょう。それから、筑紫、筑豊地域を治めていたのは弟の方ではないでしょうかね?それに物部氏を初め宇佐近辺から東遷している氏族もいるようです。それから、卑弥呼と大和朝廷の系統とは血縁ではない気がします。台与から血筋かもしれません。系図を見てそう思いました。参拝の仕方が特別なのは、卑弥呼も出雲もそれぞれに殺された経緯があるからでしょう。卑弥呼は熊襲の狗奴国に、出雲は天孫族による虐殺の歴史があるからでしょう。四拍は、「死を祓う」ということかもしれません。
トヨは魏志倭人伝では壹與(イヨ)と書かれており豊とは読めません。なので関係あったかどうかはわかりません。女王国は私も大分付近までの勢力範囲であったと思ってますが、魏志倭人伝の邪馬台国が宇佐なのか大分なのか日田なのかよくわかりません。尚、卑弥呼は筑紫平野に居たと思ってます。壹與なら可能性はあると思います。女王国として考えれば筑紫平野も含まれるのですから。物部氏の東征は複数回行われたと思ってます。最初は3世紀の邪馬台国の時代に天孫族の饒速日が行い。筑豊・筑紫の豪族が中心です。神武は3世紀後半だと思います。日向・豊の国の豪族が中心かと思います。なので神武天皇は天孫族の亜流かと思います。卑弥呼は殺害されたとしても狗奴国からではないでしょうか。
@@和田耕一-y8f いや、豊前、豊後の豊は中国人陳寿が当てた「壹」とは違うと思いますよ。邪馬台国も「台」と皆言ってってるように、「壹」は「臺」のはずです。邪馬台国(邪馬臺国)を「邪馬壹国」としたら「ヤマイ国」になり、そんな国はないと思いますよ? だから、「壹」ではなく「臺」のはずです。だから、「壹與」ではなく「臺與」のはずです。陳寿は間違ったか、わざと「壹」にしたのだと思います。「邪馬壹国」を「臺」としたら、自分たちの魏国の「臺」と等しくなり、奉ったことになり、「邪馬」と同じように、卑しめて言ってるように、倭国の「倭」もこれは「小さい」という意味であって、一種の卑しめであり、単なる「壹」に過ぎない国としたかったのだと思います。下の方でも、ここの動画主さんが、豊玉姫の東遷を述べているでしょう。だから、この日本語読みの「豊」「臺與」でいいと思います。それから狗奴国は、熊襲でよくないですか? 以前は、熊野地方の「熊野」のことかと思ったこともありますが、今はやはり「熊襲」でいい様に思います。
@@bluemoutain5675 「臺」の字は皇帝に使われる字で確かにおかしいと思います。でも陳寿が敢えて変えたのなら何故読みの異なる「壹」を持ってきたのでしょうか。隋書の俀(倭)国伝は邪靡堆(ヤビタイ)国と表記されており音から言えばほかの字でも良かったはずです。当時はやはり「ヤマイ国」だったのではないでしょうか。通説は臺與(台与)が正しいと改めますが意識してながめると、二行に三回も壹與(壱与)の名が現れています。この全てを伝写時に誤ったものと扱い、倭人伝のどこにも見当たらない臺與が正しいとするのは無理が多すぎます。まして、その一、二行後に「臺に詣(いた)り…」という臺が正しく書き分けられているというのに....つまり「ヤマイ国」と「イヨ」が当時の正しい読みであったと思われます。従って「豊」と「イヨ」を単純に結びつけることはできません。(邪馬臺国)は大和王朝と結び付けて後世に書き換えられたと思われます。私は「壹」は山に囲まれたぽつんと開けた盆地のような地形を表す意味で使ったのではないかと思ってます。狗奴国も熊襲かどうかは不明です。確かに音が似てるのでそう思える節もありますが何とも言えません。それに熊襲は元々熊本付近に住んでた人が南下したとも考えられなくもありません。
@@和田耕一-y8f 「臺」を「壹」と間違えた可能性が低いのなら、態と変えたか、初めから「臺」を使う気などなく、「壹」を使ったかです。というのは、「壹」の字は、「トウ」と読んだ可能性があるからです。今の中国人は、昔の漢字の読み方がどうだったか学者にも分からないようです。そのように考えると辻褄が合います。「臺」の字も「トウ」と言ったり「ドウ」と言ったりします。「タイ、ダイ」は今の読み方です。それから、狗奴国ですが、おっしゃる通り、熊襲とは限りませんね。前にも述べた、熊野か、もっと上の方かもしれません。「クナ」とつくところがあるようです。ということだとすると、邪馬台国、女王国は、近畿地方にも及んでいたことになりそうです。一番問題なのは、出雲の存在です。ここは、九州の台与の国と大昔から文化的にも武器的にも纏まっていたと言います。大分分かってきた気がするのです。今、その辺を考察中です。(笑)
いつも楽しく拝見しております。投稿は初めてです。仮説に関しては賛成の時もあり反対の時もありますが前方後円墳北部九州発祥説は一番賛同できない説となってしまいました。①箸墓をはじめ纏向古墳群にある前方後円墳は吉備の影響が一番感じられる(北部九州の影響は見られない)②箸墓以前につくられたと推定できる前方後円墳の原型(3世紀前半)が纏向古墳群にはある。③もし北部九州にある前方後円墳が発祥ならば卑弥呼の死後すぐに王墓より巨大な墓を北部九州内に造ったのでしょうか?卑弥呼の墓はなぜそんなに規模が小さい古墳(祇園山、平原1号墓等)なのでしょうか?死亡時期にそれほど大差はないと思われますが?文化に違いがありすぎますこの点はどういう解釈なのでしょうか?気分を悪くされたらごめんなさい
コメントありがとうございます。気分を・・・どころか、反対意見、質問等大歓迎です。納得できないポイントを箇条書きにして頂けるなんて、最高のコメントです。(本当です)私の見解を述べてみます。①纏向古墳の前方後円墳で吉備の影響がある部分は、特殊器台/特殊壺だけだと思います。突然始まる銅鏡埋葬習慣は吉備にはありませんでした。②ホケノ山古墳は今では箸墓同等期とされていますし、勝山古墳は那珂八幡古墳(福岡市)と同時期だと思われます。石塚古墳は諸説ありよくわかりません。③卑弥呼が死んだ直後からまた騒乱の時代になります。大きな墓を造れる時には思えませんし、誰にもそんな動機は無かったと思います。
ご返信ありがとうございました。なかなかすべてが解明できてない部分があるので推測しながらになるので難しい部分ですね。個人的には邪馬台国は北部九州、畿内と互角だと思っています。ようは奴国、伊都国を邪馬台国時代にどこが支配していたかが大事かと。そういう意味ではいつかの回で奴国に畿内式土器が流入している点も気になりますし前方後円墳がどちらが発祥かは非常に重要だと思っています。考古学者に畿内説が多い理由の一番が前方後円墳発祥がヤマトだと考えているかたが多いからだと思っています。これからも楽しく視聴いたしますので次回も楽しみにしております。
確かに近畿からの庄内式土器が奴国に入って来るのですが、それ以前には吉備式甕も入っています。支配云々との関係性はありません。また考古学からみると古墳時代の前の大和には、王権と言える強い勢力は無かったので、北部九州を支配することは出来ないと思っています。
土器があるからすぐに支配下にあるとは思いませんがなにかしらの交流はあったのではないかなと。畿内に邪馬台国以前から強い王権が無かったのは同意見です。ただ纏向はあくまで地理的に優位性があったので出雲、吉備、丹波、尾張の勢力等が共立して卑弥呼をたてた。近江の伊勢遺跡が突如として消滅しその直後に纏向遺跡が出現するのも繋がります。初期纏向遺跡はあくまで女王がいる宮殿というだけで経済センターはそのまま北部九州その他が牽引。纏向はいわば卑弥呼の呪術に依存した宗教都市、政治的都市だっただけという説もあります。もちろん鉄器等の状況をみれば北部九州説は優位ですね。そこには異論はありません。私はまだ邪馬台国初心者なのでこちらの動画や他の動画、または色々な意見の書物を見ていこうと思っております。現状では自分は五分五分で決めきれません。優柔不断です。でもこちらの動画は大変参考になります
色んな事を調べながら自分なりに推論を立てていくことは、我々素人にとって大いなる楽しみですね。そんな推論の中でこの時代のこと、特に勢力図を考える時に重要な観点が鉄と銅鏡だと思っています。王達にとって自分の国の隆盛には鉄製品の確保が重要でした。日本にはまだ製鉄技術が無かったので半島から鉄素材をいかに調達するか・・、なので半島の利権確保が重要でした。また王達の個人的な嗜好として漢鏡などの銅鏡(北部九州も畿内も共通)は、一朝一夕には入手できません。勿論他にも要素はありますが、この二つを説明できなければ空論になってしまうと思っています。
突然ですが、 旅を続けておられますか❓️最近、阿波の情報が入りました。剣山ー阿波。 興味が持てるようだと おすすめします。全てが びっくりびっくりびっくりです。5角の下はどうなのか?江戸時代も解るが吉野ヶ里の神社後の話は沸かしました。結論は調べてからかな🤔
阿波にも興味があり、この宇佐方面へ行く前には四国をほぼ一周して、阿波にも行きました。数回前の動画で2本アップしていますので、よろしければご視聴下さい。
@@これはどうでしょう 理解。丹砂を空海氏が探索 までは理解していましたが、阿波派の解説にはビックリです👍。近畿はエジプトのピラミッドの地 くらいに思っていた 事も解決。 九州では遠い。近畿はあり得ない。貴殿達阿波の旅編 後で、見させて頂きます。淡路島編は既視。淡路島が類似字で川州にあるとか。阿波は熱いですよ‼️私は逆に解ると熱が冷めた感じ。100余歩(75~100m)、円形墳等 ビックリ。円形と言われているのに何故前方後円を論じているのかも不思議でした。
阿波説の方々の活動も熱いですね。その原点となる活動は知っていますが、言わぬが花・・・ですね。
そこは伊都国であって邪馬台国ではないと思いますよ。おそらくですが、伊都国王の娘が敵対国の出雲の地方拠点である大和(邪馬台国)に斎王とは名ばかりの人質としてとられたんだと思います。それで戦いが収まったとともに伊都国は九州をまとめる長官として生き延びたと思います。墓は故郷の伊都国に作ったのではないですかね。その後の大和と九州の力関係から察するにこちらの方が説得力ありだと思う。卑弥呼の弟はそのご天皇になっていくけど、ほぼ出雲や大物主、伊勢、賀茂などの奴隷でしょ。新羅を攻めろと神託が下れば嫌でも攻めないといけない。逆らえば殺される。何か禍がおこれば大物主や伊勢大神の祟りだと言われて厚く奉らされる。最愛の娘を奉仕させられる。これが奴隷でなくして何なのだろうか?
大和の地に当時の中国とやり取りをしていたような考古資料がほとんど出ていないので、邪馬台国は大和ではないと思います。
@@これはどうでしょう 鏡とか結構出てなかったですかね?
鏡は大量に出ていますが、古墳時代に入ってからです。
@@これはどうでしょう 3世紀に鏡を集めて死んで4世紀に埋められたんじゃないんですか?
他の地域と違って、大和だけ4世紀の墓に埋納されています。
その通り、卑弥呼は、九州にいたはずだ!
ありがとう。そうですね!
邪馬台国と大和朝廷は別の国であると思いますね。
その通りですね。
@@これはどうでしょう でも、邪馬台国(ヤマト国)の名を取って、大和(ダイワをヤマトにした)国というのは、完全に別の国だとは思えません。何らかの関係があります。東遷説も考えられるというか東遷は間違いないです。そうすると、繋がってないはずがありません。
@@blueskyjet5321 さん私も繋がっているだろうと思います。さらに、筑紫平野近辺には、山門、大和(柳川市や佐賀市に)という地名があります。奈良も大和という地名ですが、それらのどっちが古い地名なのか、調べたことはないですが。
私は宇佐神宮の広い敷地の中に邪馬台国が隠されている、いや邪馬台国を隠す為に宇佐神宮が建立されたと考えています。大和政権は邪馬台国の存在を日本書紀にも古事記にも記載出来ない不都合があったのでしょう。もちろん、宇佐神宮の第二の御殿こそが卑弥呼の墓。上宮は巨大古墳の上に建てられていて、第二御殿の下から石棺も発見されているのは周知の事実ですが、それには触れない風潮もあるようです。宇佐神宮は謎の神宮。触れてしまえば日本の歴史が変わってしまうからではないでしょうか?それと現在は豊前、豊後を含めて大分県を豊の国と称していますが、そもそも豊の国の前が豊前であり後ろが豊後です。そうすると、豊前の始まりは(近い場所)中津市であり、豊後の始まりは国東半島の付け根にある豊後高田市です。その中間にあるのが宇佐の地です。国東半島は文字通り国の東にある半島。そうすると半島の西に国があったということです。つまり宇佐こそが豊の国なのです。豊の国はひょっとして台与(とよ)の国?私自身はかって宇佐神宮の敷地内に邪馬台国があり、宇佐の奥の院である安心院に普段は卑弥呼が住んで神事を司っていたのではないかと考えています。安心院は調べて貰えば解りますが古代宗教の跡が沢山残っています。安心院の旧家は昔から家に天照大御神をお祀りしているようです。
宇佐神宮は謎の神宮ですね。旅すがらで、浅い知識しか得られませんでした。発掘しよう、ということにはならないと思いますが、それはそれで楽しみを残してくれているとしましょう(笑)。安心院ではワインを飲んだだけでした。
東征とか、妄想でしかないことに早く気づいてください。
妄想することから、ひらめきが生まれるんですよ。
神武東征はあったと思います。内容がリアルです。
@@blueskyjet5321 元ネタはあっても、それは『東征』ではないという意味です。だいたい東征なら本拠地の宮崎を捨てるのはおかしくて、宮崎本拠地のまま東征するのが当たり前です。つまり他勢力に本拠地を追い出されたのです。そしてそのまま岡山(あるいは神戸)の地まで”戦わずに”移動しています。東征でもなんでもない。でもってその東の地はウチらの土地じゃないから好きにして良いって言われて、大阪で戦って大敗しているわけです。でもって更に東に行こうとして和歌山沖で船が難破して移動をあきらめ、その地に住み着いています。これら記述されていることを無視して、これを『東征』と呼ぶのは間違いなのです。
@@yoshihiro_sugimori だとすれば、追い出したのは熊襲?ってことかな。ところで、そのことは何に書いてあるのですか?神武系が東行したのは確かですね。ただ、神武天皇はニニギノミコトの子孫でしょうから、東行して大和朝廷を作ったのなら、やはり東征ではないにしても東遷にはなりますよね? それから、同じ系統の饒速日は、もっと早い時期に東行、または東遷してますよね。これは東征になるかもですね。物部氏も、多分その頃に共に北九州から東行してます。どうですか?物部氏だけではありません。いくつかの氏がともに東征、または東遷してますね。東征、東行または東遷は何回もあってるってことですね。
@@blueskyjet5321 いやだから、追い出されて、北九州から岡山の勢力に保護されて、行くところなくて仕方なく大阪で戦って負けて和歌山ですよ。それのどこが東征、どこが東遷、って意味です。逃げ去って東に流れ流れて流れ着いたちゃんと言いましょうってことです。分かりませんか?w
まってました。卑弥呼も待ちくたびれたと言ってました
ありがとうございます。
次回また卑弥呼様のもとを訪問します。
よろしくお伝えください。
安心院(あじむ)の宗像三女を祀る「三女神社」の遺跡、弥生後期の高貴な子供の遺骨ばかりが出てきます。恐らく安心院は安曇族の大奥(子育ての場所、足の院)が宇佐の原型だと思います。妻垣神社(足一上謄宮は、神武天皇が玉依姫(お母さま)を訪ねた場所)でもあり。大奥の原型が見えます。ホツマツタエの中筒にも合致します。まさに比売大神の地ですね。
そうですか。
安心院・安曇・玉依姫・宇佐・・・と。
出雲口伝とは内容が異なりますが、宇佐にはやはり何かあるのは間違いないですね。
なるほど、いい勉強になります。
ありがとうございます。
いつも楽しみに拝見しています。私も昨年初夏に福岡県と大分県を駆け足で回りました。卑弥呼と鏡についてはほぼ同意見です。引き続き道中お気をつけて頑張ってください!
ありがとうございます。
うちの旅は「長旅」です。
どうか飽きずにお付き合いよろしくお願いします。
台湾の動画も良かったですが、「古代史探索」の動画を待っていました。以前の動画で三角縁神獣鏡と古墳の年代の関係を明らかにされていましたので、今回の考察も理解できました。私としては東征のモチベーションがどこにあったのか興味があります。敵から逃げるためなのか、それとも豊かな新天地をみつけてニュータウンに移住したのか?
お待たせしました(笑)。
東征のモチベーション。
継続した東への移動は、北部九州の過密だろうと思っています。
各地域の王位継承はきっと熾烈でしょうし、敗れた皇子達は自ずと東へ流れていくのだろうと思います。
ただ、弥生期週末の移動は大規模だったハズです。それまで畿内に無かった王権が一気に立ち上がる訳ですから。
やはり北部九州に起こった倭国大乱が起因となって、大規模移動が行われたのだろうと思います。
卑弥呼が手を焼いた狗奴国の躍進も可能性がありと思っています。
「大胆」と謙遜されていますが、かなり妥当性のある説だと思います。一連の『古代史探索の旅』を拝見していると、魏志倭人伝や記紀などの文献資料および考古学的研究成果にかなり通暁されているだけではなく、その知識を基に神話と史実の関連性を論理的な明晰さを持って分析推論されていることに感心しています。さらに、それを実地見聞で確認されるという余裕と行動力には羨ましささえ覚えます😊
邪馬台国連合を起点とする東遷は饒速日命と神武天皇(イワレヒコ)の二系統があったこと、饒速日の大和への派遣は邪馬台国の臺與の時代に行われ、当時の邪馬台国の中心は筑紫平野から宇佐神宮がある豊の国に移動していた、などかなりの確度で正しいのではないかと思います。前方後円墳の北九州発祥説や卑弥呼の居所の日田説も有力説だと思います。
邪馬台国が北九州にあったことは考古学的証拠からもほぼ確実であり、現在、纏向などの大和説がマスコミなどで持て囃されているのは大きな誤謬でいずれ否定されると思いますが、邪馬台国や卑弥呼の詳細については今後のさらなる発見や研究に期待しています🚴
ご賛同頂けて嬉しいです。
でもちょっと誉め過ぎでは?(笑)。
邪馬台国の所在地が確定するには、卑弥呼の墓が発見される必要があると思いますが、もしこれが宇佐神宮の境内地内なら無理でしょうかね。
今後ともよろしくお願いします。
唐揚げは やはり豊葦原の中津国産ですね。最高です!
同意です。間違いないです(笑)。
正しい推論と思います。
ありがとうございます。
貴重な考古学資料を見せていただきありがとうございます。西古東進 初見ですが賛同します 豊臣秀吉の由来も九州由来かな
ありがとうございます。
豊臣の由来は知らないですが、豊__は愛知県に多い印象はありますね。
西古東新はオリジナル造語です(笑)。
お待ちしておりました。
いつも楽しく拝見しております。
しかし昨日、見逃したみたいデス😅
やはり中津の唐揚げいかれましたネ。
中津市内から、宇佐まで古代の道があったそうですよ。
どの辺りで桜と出会うのでしょう🌸
先は長そうですネ。
中津の唐揚げ美味しかったです。
ただこの旅は、サクラ前線とは出会わないかも知れません。
貴台のチャンネルでコメントしたか記憶が定かではないのですが、邪馬台国が国ごと北九州に移動した話は私も持っている説です😳
卑弥呼が直接的か間接的か分かりませんが、なにかしら戦の影響で亡くなり(自説:高齢だったため戦の心労によるもの)台与が女王に即位すると同時期に安全な北九州に国ごと移動(避難)したのではないかというものです。
福岡県内で邪馬台国を匂わせるような出土品が多く発見されるのはそのためと考えれば合点がいきます。
ただ、その後台与の一族が畿内に移動したとまでは考えていませんでした。これは私の知識不足によるもので、そこまで考えが至らなかっただけの話なのですが・・・
邪馬台国からヤマト王権へは直接的流れってことですか❓
台与は『倭国王』だったと❗☝😳すると、箸墓古墳は台与もしくはその子供の墓という可能性もあるってことでしょうか❓
なんか話がずいぶんと大きくなってきてワクワク感があります✨👍😁
私も中津でから揚げ食べましたけど大したモンじゃなかったです。普通のから揚げでした😅
耶馬渓は期待したほどじゃなかったけど、ダムは凄かったです✋🤩🤚ステキ💞
話を随分大きく盛ってしまい恐縮です。
でも台与の一族が東征した可能性はあると思っています。もちろん箸墓もそういうことかも知れません。
「唐揚げ大したモンじゃなかった」、「耶馬渓は期待したほどじゃなかった」それは言ってはいかんことバイ。
我々RUclipsrにとっては。
中津唐揚げは本物ではありません。
本物は唐揚げを始めたしょうすけさんが住んでた
四日市唐揚げです‼︎
宇佐旅したくなりました ( ・ิω・ิ)✨あと、小迫辻原遺跡とか、吹上遺跡も見て帰りたいですwww
是非行ってみてください。
特別な気持ちで行くと、特別なことが見えて来るような気がします。
岡山平野にある近所の前方後円墳は高い木々が繁り、近くで見ると元の形が解りにくいのですが、この赤塚古墳の画像を見ると不思議な感覚になります。
そうですね。
古墳時代の当時の王達の墓も、1500年経つと色んな姿になる訳ですね。
近所の霊園も1000年後にはどうなっていることやら・・・
仮説、おもしろいです🤩
ありがとうございます。
良いですねぇ(^^)私もカズさんの説に賛成です。やはり卑弥呼は北九州でしょう。宇佐も枠範囲。ただ台与(豊)系は丹後へ、別系が倭へ東遷した可能性があるかなって思ってます。余りにも丹後には豊日女関連の説話(神社)があるから・・まぁ本当に古代史は良いですね。台湾に続きまゆさんの食レポ!楽しみにしております。
かずさんが編集でカットしないよう見張っておきます(笑)
丹後の豊日女関連の説話。
了解しました。豊岡方面でしょうか?
いずれ丹後はまた行きたいと思っていますので、その時には下調べします。
食レポもたくさん撮ってるんですが、
「また喰うんかい」という声が聞こえそうでボツも多いです。
美味しそうな上手な食レポが撮れたら報告します(笑)。
宮津市周辺ですかね。籠神社にも豊受大神の名がありますし、丹後国風土記にも羽衣伝説として豊宇賀能売命の名が出て来ます。台与の存在感を考えると倭の百襲日女や豊鍬入日女より関連がありそう!と思ったので・・何しろ浅学なので曖昧ですみません(^^)
ありがとうございます。
豊受大神を忘れていました。
籠神社も行ったのですが、古代史もかじり始めの頃で、天橋立や伊根に行って楽しんでいました(笑)。
確かに宮津周辺は古墳が多かった、という看板での印象があります。
丹後は再調査要ですね。
いつも楽しく拝見しています。ありがとうございます。大分県在住です。うちの近くにも九州最大級の古墳がいくつかあります。御塔山古墳は5世紀の前方後円墳、小熊山古墳は3世紀での円墳です。市の財政状況が悪いためか、なかなか整備されず残念です。福岡県の糸島の博物館に最大の鏡がいくつもあるのはご存じですか?伊都国歴史博物館です。日本最大の銅鏡『内行花文鏡』です。私も初めは、九州にあった都が、奈良の方に移ったと考えます。そのころ、大分県の別府、鶴見岳の大噴火があって、移動せざるを得なかったのではないかと思います。大和筑豊説の福永晋三さんの説にもかなり説得力がありますよね。
こちらこそコメント頂きありがとうございます。
大分にはまだまだありそうですね。
今回の訪問で、正直認識を新たにしました。
伊都国歴史博物館は行きましたよ(笑)。
あの鏡にはびっくりぽん!でした(古)
動画にもまとめています。
ruclips.net/video/8ycasej7InU/видео.html
@@これはどうでしょう ご丁寧に返信して下さり、ありがとうございます。早速動画見させていただきます。古代史の謎、これからも、追ってください。よろしくお願いします。楽しみにしています。
了解しました。
こちらこそよろしくお願いします。
いつも面白く拝見しています。
神武東征の話は歴史編纂書である日本書紀、古事記、遡れば記紀に記載されている
多くの歴史家があれは神話で正確な歴史として無視するような事が多くありました。
しかしながら、天皇の始祖である神が九州から東征したとその当時の歴史編纂者が当然の如く記載したというのは、それが古くから皆に当たり前の事実として認められて居たのでしょう
天皇の出自が仮に奈良であったのなら政治的にも記載を削除したかもしくは天孫降臨は奈良となるはずてすし…
私も記紀編纂時の天皇家の祖先が九州から来たのだろうと思っています。
ただ、記紀に書かれていることは不正確だろうとも思っています。
北九州に卑弥呼はすんでいて、お墓は宇佐神宮ですか!
そうかも知れませんね。
今回も面白く拝見させていただきました。恐らくその通りと思っております。トヨの本拠地は宇佐であろうと思います。(宇佐神宮は墓の上に建てられてると以前から言われてます)。そしてその直系皇子のニギハヤヒが第一次東遷の主役でしょう。年代的にも合います。ニギハヤヒとニニギは兄弟で、ニギハヤヒがまず安芸や吉備に移住して拠点を作りその後大和に攻め込んだのでしょう。その後に同じ天孫族のニニギの子孫である神武が宮崎日向から大和への第二次東遷が行なわれたととすれば、すんなり安芸、吉備に入れた理由も説明できます。東遷の理由はこの頃大分の鶴見岳の噴火が有ってます。この地区はその前に由布岳や九重連山も噴火しており、その影響もあったのかもしれません。
なるほど、神武東征がその後の話であれば、宮崎の古墳時代の年代感が合います。
一方、火山活動に言及される方は多いですね。
どれ位の規模の活動がどのあたりに影響したか、不勉強でよく知りません。
宇佐方面の遺跡からいくと、赤塚古墳の後の王達は脈々とその地で繋がっているようです。
実は火山活動が気候におよぼしたであろうという学術文献はすでにあります。弥生時代後期180年頃極寒冷化し一旦温暖化に戻りますが再び寒冷化に向かい300年前後で極寒冷化し再度温暖化に向かうとなってます。これはそれぞれ倭国大乱の時代と神武東征の時代と重なります。そして由布岳、鶴見岳、九重山の噴火の時期とも重なります。さらに火山灰の降灰は主に東側が大きく瀬戸内海や四国の沿岸部は川がせき止められ稲作ができなくなりその時代に高地集落が形成されてます。英彦山系の今川(旧犀川)は降灰で流れが変わり本来遠賀川に合流してたものが京都郡から行橋に変えられてます。新羅国本紀にも2世紀後半(193年)倭人が大飢饉により食を求めてきたとあります。アマテラスの天岩戸事件も火山噴火のことではないかという説もあり、物部の東征は被害の無かった地域を植民地化し九州北部に食糧を運ぶためだったのではないかとのことです。ついでに神武の別名は祖父と同じ彦火火出見尊、何で名前にこんなに火がいっぱい入ってるのでしょうね。
火山活動が気候と地形に及ぼした影響が、ある程度わかっているのですね。
勉強になります。
一点疑問に思ったのは、
「物部の東征は被害の無かった地域を植民地化し九州北部に食糧を運ぶためだった」
であれば、その後AD300年頃以降も北部九州が広く日本を統制下に置いたでしょうが、その痕跡を感じられません。
それは北部九州に居るより大和の方が自然災害も少なく日本統制するのに都合がいい場所と東征を行った当事者達が思ったからでしょう。そこから大和朝廷が始まったのでしょう。交易が活性化したので、この時代に庄内式土器が九州に入ってきたはずです。でも地元に残った人も多くいたと思ってます。なかなか祖先を祭る自分が生まれた土地を捨てられないものです。そのうち本家より大和に移った分家の方が強大となり、北部九州の本家は大和分家に頼るようになったと考えてます(もともと本家は魏を頼ってたが、中国がそれどころではなくなったので、その代わりとして大和朝廷を頼ることとなった)。当時は九州王朝は大和朝廷にとって覇権を争えば一番強力な相手であったはずなのに過去に争った形跡がありません。つまり景行天皇の九州征伐は北部九州本家の依頼により大和朝廷が動いたということだと思います。磐井の乱も勢力を拡大してた狗奴国の子孫の最終的な討伐だと思います。だから天皇家はこれほど宇佐神宮を大切にしてるのではないでしょうか。まだ応神天皇の出目が確定できてないので何とも言えませんが…。
了解です。
そういうことであれば、同感です。
ある時期以降、北部九州と大和が同期したように思えますね。
大和目線で見れば、中国の冊封が解けた半島南部で、本家が持っていた半島・鉄利権を共有できた訳ですから、大和が急激に発展することも理解できます。
「景行天皇の九州征伐は北部九州本家の依頼により大和朝廷が動いた」というお考え・・・興味深いです。
まだこの頃への思考が出来ていないのですが、念頭に置いて思考させて頂くことにします。
私も、邪馬台国、北九州説です。特に宇佐説です。それに東遷説も昔から変わりません。
もう、数十年になりますが、微動だにしていません。この動画内容にも同調できます。
これからも励んでください。応援します。
勇気づけられるお言葉、有り難いです。
この旅で宇佐から日田に入りましたが、中々の山道で、1800年前なら陸行1月のルートかな、と感じました(笑)。
@@これはどうでしょう ご返答ありがとうございます。このところ、この動画の影響もあって、数日、邪馬台国について考えこんでいます。
今、神武東征のことで悩んでおり、混乱もしています。というのは、古田武彦の主張である日向北九州説、いわゆる、糸島の日向峠辺りからの東征ではなかったかと思い始めたからです。その方が理にかなっています。しかし、そうなると、一つ問題なのは、神武天皇と兄の五瀬の命が東征について話し合ったという高千穂の宮です。ある人は、それを英彦山神社に当てていますが、どうなんだろうと思っています。この古田の日向峠説だと、宇佐説にとっても有利になるのです(ニタリ😁)
こういう内容があります。
『書紀』には「筑紫の日向」と表現され、『古事記』でも「竺紫の日向の高千穂」、「この地は韓国(からくに)に向ひ、……、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」と書かれてあり、こうした地理的状況に筑前海岸部は合致する。西区と糸島市との境界あたりには日向峠・日向山や槵触(くしふる)山の地名も残る。
というものです。 ここから神武は出発したというのです。どう思いますか?
ご示唆されている説話については諸説ある中で、私の考えも定まりません。
「筑紫」が福岡平野~糸島周辺とすれば、日向は日向峠周辺に、
筑紫平野を中心とした北部九州とすれば、日向は英彦山から日田に、
さらに、古事記に建日向日豊久士比泥別(の国)とある肥の国とすれば、高千穂にもなると思います。
神武東征がいつの時代の何を指すのか、古代史の一つのキーワードですね。
@@これはどうでしょう はい、おかげで、邪馬台国の関心が復活しました。色々分かってきました。感謝してます。
これからも、ご検討祈ります。非常に参考になっております。こちらも分かったことは、出来るだけお知らせするようにします。
@@bluemoutain5675 さん
それはよろしゅうございました。
今後ともよろしくお願いします。
やっと動画視聴出来ました。待っておりました。宇都宮の餃子談義も聞きたいけど、やっぱり古代史ですよね。
中国語の単語には、宗女と検索しても該当する単語はでできませんので、魏志用語での単語を考察するのが楽しくて
主の動画にピッタリの意味がありました。(宗)、芸道の家元。!前方後円墳と言う芸道(技術)の家元が、九州!(笑)
(宗)は、目的の意味や、宗派、同じ宗教の意味もあるので、卑弥呼以死、、、、宗女壹與、、、
(政)は、卑弥呼が死んで墓も出来たから、同じ宗教・前方後円墳の芸道の家元である訪問の目的の壹與に会いにきた?
こんな感じですかね?ただ、東近江市の神郷亀塚古墳が、古さでは一歩リードしている調査報告書もあり、垂仁朝に天日矛の技術者が近江に居住を許された伝承があるので、半島南部の倭人と北部九州の人が移住?それって300年頃の九重火山の噴火のタイミングでは?成層圏まで火山灰が噴火したらしいですが、半島南部の倭人と北部九州の倭人なら御近所さんだから、畿内の倭人とも仲良く暮らしたんでしょうね?
魏志は中国の歴史書ですから、中国の辞書を使わないと、、、酷→中国語・カッコイイ・日本語・ひどい。。ですから(笑)
お待たせいたしました。
私は中国語は苦手なので、台湾ではまゆさんの案内にそのまま乗っかってました(笑)。
天日矛・・は重要人物ですね。
逸話がいつの時代の話なのかも、まだ考えが持てません。
神郷亀塚古墳はWikiで見ると確かに3世紀前半とありましたが、根拠とされている弥生時代後期の土器を知りたいところです。
前方後方墳の分布も興味津々です。
近江の辺りは彦根城くらいしか行ってないので、全く土地勘がありません。
要調査地帯ですね!
@@これはどうでしょう 様。経済効果の為!
調査旅行ガンバリましょう。
私も結構旅行先でお金使うようにしてるんですよ。店は個人経営限定にしてますし(笑)
主の動画は、勉強になるので、末永く奥さんと続けて下さいね。
松坂・伊賀・近江は、肉ですから、ちょっと高いかも?(笑)
神郷亀塚古墳の遺跡調査報告書、検索すればダウンロードできるかも?です。【簡易版はすぐにありましたよ】
私は、wikは利用しないのでよくわかりませんが、遺跡調査報告書なら、PCにダウンロードしていっぱいに(笑)整理の方法考えてる最中なんです。
今のままでは、ただのアイコンですから(笑)
了解しました。
ありがとうございます。
「神郷亀塚古墳の遺跡調査報告書」検索してみます。
次回は近江牛の店ですね。年金貯金しておきます(笑)。
@@これはどうでしょう 様713年に瑞祥地名で名前変わったと思いきや、地名標識見る限り残ってような気がします。そんな古代地名も楽しみながらドライブをしているんです。近江・伊賀・松坂の御肉最高です。霜降りは、口でとろけます。
私も旅先での地名妄想大好きです。
筑後国あたりで「福童」なんて地名があった時は、一人でニヤニヤしました(笑)。
宇佐神宮が伊勢神宮と並ぶ宗廟として敬われたのも、畿内に移入した後のヤマト王権・天皇家にとって神聖視されるべき特殊な事情があったとしか考えられないです。御神託事件も、なぜ畿内から近い伊勢ではなく宇佐まで聞きに行ったのだろうか?
石清水八幡宮、壺井八幡宮、鶴岡八幡宮・・・清和源氏(特に河内源氏)も宇佐の八幡神を氏神として最重視したのも、応神天皇を神格化しただけとも考えにくいです。応神天皇が宇佐に祀られてる理由もよく分からないです。現在でもFlagを旗と言いますが、蚕・絹生産・機織りの技術と関係あるのかもしれません。古代の服部氏などの部民・職掌氏族やハタ氏(秦氏)に関係してるのかも。曹操級の鏡が出土した日田とも近いですね。
色々と疑念を沸かせてしまい・・・
嬉しい限りです(笑)。
何故、八幡なのか。
何故、応神天皇を追祀したのか。
出雲口伝にはその説明もありましたが、自分の中ではまだ???も残っているので、紹介できていません。
いづれにしても、神功皇后、応神天皇のあたりの記紀の記述も大いなる「裏」を感じますね。
邪馬台国のロマン、素晴らしいです。
自分も、日田から宇佐にかけて、大きな国があったような気がします。
卑弥呼の可能性。
宇佐神宮そのものが、亀山古墳の上にあり、宇佐神宮の下には、謎の棺があると言われています。
また、卑弥呼が亡くなった時に、従者が、百人、殉教し、埋葬さらたと言われています。
そういった部分から言えば、宇佐神宮の付近に、そはの可能性はお宮だったか、あります。
あと、もう一つ、可能性として、考えられるのは、耶馬溪です。
一つ、参考になるのが、宗像市です。
宗像市には、占部姓を持つ人が多く。
これは、平安以前に、職業イコール、名前の時代に、出来た名前です。
あと、邪馬台国の属国に、句奴国があります。
最近、世界遺産に登録された、沖ノ島遺跡と、関連古墳群の中に、奴山古墳があります。
ある面、名前から、探ると、面白いと思います。
だから、邪馬台国の属国の一つに、今の、糸島地方があります。
それと、近畿説。
恐らく、違うと思います。
それは、属国な管理から考えると、近畿から、九州を管理すること自体に、無理かあるからです。
そして、中国等との交易。
それを考えても、九州説が正しいのではないかと思います。
確かに、移動行程等の記述。
それを、直線距離に換算してるのではないか。
あるいは、山があれば、山道を行かず、迂回した可能性もあるます。
だから、近畿説は、最大、移動距離から考え数字です。
しかし、実際とは、違っている可能性があると思います。
宇佐神宮の謎ですね。
社殿の建て替えでもなければ、発掘されないでしょうね。
宗像方面は一度見学に訪れただけで、もっと詳しく勉強したいと思っています。
やはり、宗像市から、福津市方面は、重要と思います。
それは、昔の、航海技術から、島伝いで航海していたことから、途中、目印になるのは、壱岐対馬や沖ノ島等、比較的、目印が多いからです。
まあ、一つの、属国過ぎませんが、重要な手掛かりがあるかもしれません。
それと、興味深いのは、帯方という記述にも注目です。
そして、宗像。
ただ、今の、宗像という文字で表し始めたのは、西暦998年からです。
それ以前は、胸に肩や形等、あったようです。
また、昔の領地からも、大内氏と、宗像氏と、分断されていた経緯もあります。
そして、今の、福津市。
宮地岳神社は、大内氏の領地だったようです。
また、宮地岳神社の奥の院自体、古墳です。
ただ、中国からの使者が、どういった経路を辿ったのか。
一つの、参考になると思います。
航海の観点から沖ノ島祭祀が重要だったのですね。
宗像大社の宝物殿にあった数々の宝物がそれを語っています。
時代背景を上手くとらえて、有効な手掛かりにしたいと思っています。
九州から奈良へ都が移った時点で卑弥呼が神になったと考えます。
この考えは私もかねてからほかのページで訴えている内容に合っています。
ついでに多くの人たちが(い与)と読んでいる中で、台与を(トヨ)と読んでいるのに(邪馬台国)をヤマトとなぜ読まないのかと思います。
イヨ/トヨ、ヤマタイコク/ヤマイチコク/ヤマトコクの読み方に定説はないと思っています。
大賛成、同意見です!さらに言えば政庁は日田あたりに移動したのでは?倭国大乱もあったりして。しかも日本で唯一、鉄鏡が発掘され、しかもあの曹操の墓から同じ鉄鏡が発掘された!!!卑弥呼の墓と出身地は宇佐(神宮)なのでは?確かに宇佐神宮は小高い丘に成っていて部分的に角度の急な坂も有るし!!!
日田は確かにとても興味深いですね。
あれだけの鏡が出ていて、誰も卑弥呼の話をしていなかったのが不思議です。
これから日田に入ります。
ご期待下さい。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、奈良県には大和政権があり都が京都に遷都されるまでの間長く 5:30 歴代天皇がいらっしゃいました。
又初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
@@古屋公夫-s9s それだとヤマト王権の初代天皇(王)は神武ではなく卑弥呼になりますよ?…所謂 魏史倭人伝は二世紀から三世紀 辺りの書物でしょ? 初代 神武天皇の即位は紀元前なので………
ハムチーズ
2回目?か3回目の投稿です。
久しぶりに明快な論法で、モヤモヤを払拭してくれました。
こうした論理的な展開を、今までの学者さんたちは何故してこなかったんでしょうか?
在野の「これはどうでしょう」さんの方が、自ら歩いて回って調べた推論なので、かなり説得力があります。今回のシリーズの数回前で出雲口伝も初めて聞きましたが、いろんな観点から今後もどんどん新説を繰り出してください。
ご評価ありがとうございます。
私は興味本位に自分の考えをご披露しているだけで、専門家の方のように広く深い知識はありません。
また、考古学に携わっておられるすべての方々の、気が遠くなるようなご苦労への敬意も忘れてはいけないと思っています。
ただいつも、自分が納得できる答えが欲しいと思い、妄想することは大好きです。
今後ともよろしくお願いします。
ご教示ください。
神武東征が280〜290年頃とすると、饒速日の東遷は西暦でいうといつ頃でしょうか?
それでいくと3世紀中庸頃ということになると思いますが、記紀の通りでない可能性はあると思っています。
鉄製武器の変遷も広形銅矛と同じでしょうか?同様に年代と出土時期のグラフに落とし込んでいただければもっとわかりやすいのですが、
以前、弥生期の鉄鏃や鉄剣の分布を掲載したことはあります(Ⅲー第1話)が、時期ごとの分布となるとさらに調査が必要そうです。
調査継続します(笑)。
鉄製の武器の変遷は、北部九州の勢力が出雲や大和を制圧するのに重要なファクターと思ってます。専門家の方たちは、青銅器と鉄器が同時期に入ってきたとおっしゃてますが本当でしょうか?青銅器は武器には使えませんが、鉄器は武器として重要だと思います。その変遷をたどった論文を見つけることができません。宜しく御願いします。
北部九州でいうと、青銅器の方が幾分早いのではないでしょうか。
鉄剣が入る前、銅剣も立派な武器だったろうと思います。
調査継続します(笑)。
古代史探索まってました。宇佐説宇佐神宮ついて詳しくはまた、述べても良いでしょうか!。神武東征は、実質てきには、286年頃に武内宿禰が東征していますね。書紀は、武内宿禰を歴代大王に何百年も仕えたとして架空の存在のようにして隠しています。台与と武内宿禰は夫婦ですね応神天皇は孫位にあたります。武内宿禰と応神天皇か名前を入替えています。ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国こしのくに武内宿禰と共に(北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神ヒケノオオカミにお参りになった。そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神イザサワケノカミといい、太子を誉田別尊ホムタワケノミコトと名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神ホムタワケノミコト、太子のもとの名を去来紗別尊イザサワケノカミということになる。けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。 (この言い回しは、ある説と云いながら記録はないとしおきながら詳しく書いているのに変な話である。)編者は、暗喩しているようである。
どちらの説か分からないのですが、応神天皇のすり替わり説とか、出雲口伝とも似ている部分もあるように思います。
いろんな説があって、なかなか楽しめる時代ですね。
@@これはどうでしょう 「大神のもとの名を誉田別神ホムタワケノミコト、太子のもとの名を去来紗別尊イザサワケノカミということになる。」 (名前を入替え)は、この説は、日本書紀の記述です。
そうなんですか!
名前入れ替えを公言するとは、何か事情があったんでしょうね。
@@これはどうでしょう 日本書紀古の人は、弓の鞆のことを、「ほむた」と言った。
ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国(こしのくに)(北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神(ヒケノオオカミ)にお参りになった。そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(イザサワケノカミ)といい、太子を誉田別尊(ホムタワケノミコト)と名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神(ホムタワケノミコト)、太子のもとの名を去来紗別尊(イザサワケノカミ)ということになる。けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。
古事記気比大神の条そこで武内宿禰(たけしうちのすくね)は、その皇太子を連れて禊(みそぎ)をしようとして、近江(おうみ)および若狭国(わかさのくに)を巡歴した時、越前国(えちぜんのく)にの敦賀(つるが)に仮宮を造って、そこに住ませた。ところがそこにおられる(ホムタワケノミコト)伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)命が、夜の夢に現われて、「私の名(誉田別神)を御子の御名に変えたいと思う」と言った。そこでその神を祝福して申すには、「恐れ入りました。仰せのとおりに、御名誉田別尊(ホムタワケノミコト)をいただいて名を変え申しましょう」と述べた。この説は、実質の大王武内宿禰が正当の誉田別尊(ホムタワケノミコト)こと応神天皇に名前を授けた儀式であると解釈できるようです。なお、架空の神武東征は、実質的には、283年の武内宿禰(266年のその後台与と爵位を受けた男王・狗奴国王)の東征(出雲国から北陸東国畿内を占領する。素戔嗚尊こと崇神天皇→大国主命饒速日物部氏が畿内勢力である。)です。台与とその子孫の応神天皇は、女王国(邪馬台国)の後継と狗奴国の紀氏武内宿禰の血統として九州倭国に残っています。その後倭の五王(讃)→継体朝→大友氏→物部氏・蘇我氏馬子(アメノタリシヒコ大王推古傀儡畿内(日出天子隋へ)難波宮に遷都600年-607年頃)・蝦夷・(皇極天皇架空)乙巳の変入鹿 ・孝徳→斉明→白村江の戦中大兄近江大津遷都→天武天皇(用明天皇の孫(高向王)(光徳天皇?)と斉明宝皇女の漢皇子・蘇我連子大臣)へと続く。(私説仮説その間のことは最っと詳しいのですか゛略します。)
途中で・・・
「武内宿禰(266年のその後台与と爵位を受けた男王・狗奴国王)の東征(出雲国から北陸東国畿内を占領する。素戔嗚尊こと崇神天皇→大国主命饒速日物部氏が畿内勢力」
あたりで、ちょっと分からなくなりますが、私説ご披露ありがとうございました。
釣りどうでしょう
😊さが
釣よか、もありますね @さが
参考までに、かの津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照である。
しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。
以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。
ご教示ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。
赤塚古墳から宗像大社
85.02 km(52.83 マイル)
85.03 km(52.83 マイル)
291.89 km(181.37 マイル)八倉比賣神社 磐座 34.055902, 134.464588
239.37 km(148.73 マイル)出雲大社本殿中央
34.33 km(21.33 マイル)市杵島 姫降臨・・・33で完璧確定
〒873-0032 大分県杵築市奈多 奈多宮の市杵島
〒779-3127 徳島県徳島市国府町
〒872-0101 大分県宇佐市高森800
8 7211 8 358救世主シロ 88神はINRI神
マイルは8神の復活 85王 奈多宮87332・・・33観音数と二種復活数7332
現地の映像ありがとう 伊勢神宮125社の25即決となりました ウカノミタマです
何か深い考察なのか、私にはよく分かりません。
賛同致します。
反論コメント少ないですよー
仮説→本説になっちゃいますよー
ご賛同ありがとうございます。
仮説も証明できなければ・・・
ですが、反論来ないと調子に乗っちゃいますね(笑)。
前方後円墳は何種類があるみたいです。
福岡周辺タイプ(那珂八幡古墳含む)、四国タイプ、一般的な大和王権タイプ。
畿内の古い前方後円墳も那珂八幡古墳もほぼ同時期の可能性があります。このことから畿内の大和王権と邪馬台国の関係が興味深いですね。私の考えは初期は連合国家、最後は敵対して大和王権が邪馬台国を滅ぼしたと考えております。仮に大和王権に邪馬台国の血筋が含まれているならば古事記、日本書紀に邪馬台国は明記されていると思います。
魏志倭人伝にはイト国の一大率や奴国などと邪馬台国が敵対していたとは書かれていませんので連合国家の一部と考えて良いのかなと。
後に大和王権が宇佐神宮を作った意味を考えると、邪馬台国を滅ぼした穢れを鎮めるためなのかなと、、、。そして比売大神は卑弥呼とトヨなのかなぁ。
あとこの頃の人達はトップの人間が亡くなると穢れから逃げるために移動する習慣が有ったのかもしれません。大和王権(大和朝廷)は持統天皇までは天皇が崩御すると移動していたようです。
コメントありがとうございます。
私も邪馬台国とヤマト王権の創始期が深く関係しているだろうと考えています。
ただ私は日本書紀に邪馬台国が明記されていないのは、記紀編纂時にすでに邪馬台国どころか、ヤマト王権誕生の頃の大和の記憶が無くなっていたからだと思っています。
それは、誕生期に築造された大和盆地南東部の6基の超大型前方後円墳の築造順と、記紀にある大王達の即位順が合致しない、という考古学上の見解による為です。
その後の河内の仁徳天皇陵なども同様です。
@@これはどうでしょう
レスありがとうございます。
少なくとも古事記日本書紀が編纂された頃の大和朝廷は大陸の記録に邪馬台国と卑弥呼が載っていたことを把握していたと思います。その証拠に神功皇后をいかにも卑弥呼と思わせるような記述になっています。
邪馬台国の位置や古墳の埋葬者は忘れられたという説はその通りかもしれませんね。でもあれだけ大きいお墓の御先祖が解らなくなるのも可哀想ですねw
記紀編纂時の朝廷は、魏志倭人伝は所持していただろうし、纏向辺りに大きな墓が残っていることも意識していたけど、今の天皇家とどう関わっていたのかがわからない。だから想像か創作して記紀に書き込んだのだろうと思います。
奈良時代に陵墓管理は始めたけども、その後また分からなくなり、元禄のころには崇神天皇陵も分からなくなっていたそうです。
神武天皇陵も然りで、江戸末期の文久3年に新たに造営されています。
だから当初議論したように、邪馬台国とヤマト王権の創始期が深く関係していたとしても、記紀にはその時の史実が書けなかった訳です。
我々の妄想がここからスタートできるのは、長年の考古研究のお陰です。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、第10代崇神天皇を中心として、政治及び祭祀が行われていました。
その後都を京都に遷都するまでの長い間、歴代天皇が奈良県にいらっしゃいました。
又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました
。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
記紀をたどるだけでは本当の古代史には行きつかないと思っています。
考古学的に初期大和王権の最初の大王墓と言われる箸墓がもし倭迹迹日百襲姫命の墓ならば、それに続く大王墓の西殿塚古墳が第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵ということも大きな矛盾ですし、その後に崇神天皇陵の行燈山古墳がくるというのもまた大きな矛盾です。
全く事実を反映していない伝承なのです。
邪馬台国大和説の方々には酷な言い方だろうと思いますが、卑弥呼の話などは何の根拠も奈良には存在しないのが事実なのです。
こんな仮説は如何でしょうか❓
全国に点在していた縄文集落が徐々に大きな部族集団に纏まってきた頃、九州にはおおよそ北から邪馬台国系、熊襲系、隼人系の集団が形成されていた。 普通、その中に新たに弥生系の人達がやって来た場合、何となくまじりあって同化して行った様なイメージで考えていますが。。。
そう言う形の他に、有る程度の人数の集団が渡来して来た場合は、縄文系の手薄な土地に先ず自分達の集落を形成して行ったのではないでしょうか?
それが、九州では、河口面積が広くて平地が狭かった為に、邪馬台国本体からは僻地だった遠賀川付近で、その辺りを起点に徐々に上流へ南下すると者、九州東岸沿いに点々と南下して行く者、また日本海沿岸、瀬戸内沿岸に拠点が広がって行きつつあったのでは?
彼等は、邪馬台国人の様な海洋系の人達ではなく、どちらか言うと、大陸系・山岳系の人達で山歩きを得意としていた。
その中の一派が高千穂から日向に拠点を定めた神武系の人達で、そこから縄文系と同化もしつつ、主に宇佐などの北東部九州の弥生系の部族を纏めつつ東進して行ったのではないでしょうか⁉️
彼等が、最終的に邪馬台国を滅ぼして九州全土を、併合して行くのは、もう少しヤマトとしての実力を付けてからの頃ではないではなかった か。
(彼等を弥生系のと呼ぶのが正しいのかどうかは分かりませんが、新たな渡来系種族と言う意味で使っています)
面白い仮説ありがとうございます。
おおよそそのようなことがあったかも知れませんね。
当時は必ず集団ごと移動してきた勢力もあったでしょうから、山岳系の集団もあったでしょうね。
課題としては、その人達が優勢になるのに必要な条件がそろうかどうか、でしょうね。
ありがとうございます。 自分自身では綿密な検証など出来ないので、新鮮なご意見拝見しながら自分の中で合理的に見えそうな世界を模索して、無責任に投げさせて頂いています。今ふと思ったのは、記紀の制作者にとって邪馬台国からの継承性を主張する必要があったのだろうか?と言う点です。。。
それにしても、ご夫婦のほのぼのとした、歴史探報旅❣️楽しみに拝見させて頂いております🎶
ありがとうございます。
「記紀の制作者にとって邪馬台国からの継承性の主張」・・なかったでしょうね。
というより、全く分からなかったのでしょう。故に、魏志倭人伝からの話を神功皇后記に入れたのでしょう。
ヤマト王権誕生の頃は、邪馬台国と繋がっていただろう、が私の見解です。
宇佐神宮は現天皇家の根幹をなす場所なのは間違いないのですが果たして邪馬台国であったかどうかは今一つ確信できません。というのは神功皇后という天皇家の血筋かどうかわからない方があまりにも大きく奉られてるのが気になります。大抵こういった場合は祟り神です。菅原道真公もそうですし、出雲もそうです。宇佐神宮は応神天皇、神功皇后、比売大神が祭神なのですが、成務天皇、仲哀天皇、ヤマトタケルの尊、神功皇后の方々の世代が同じではと思えます。またそれぞれの関係も今一つはっきりしません。果たして神功皇后は大和朝廷と関係あるのでしょうか。朝鮮出兵は九州の豪族連合が行ったもので大和朝廷とは関係がなかったのではとも考えてしまいます。応神天皇が九州から出兵し大和を征圧したのですからこの頃の九州の豪族の力は相当なものであったと考えられます。大和朝廷からうまく利用された神功皇后が宇佐に封じられたとも取れます。
しかし、豊後地方は、読んで字のごとく豊の居たところでしょ? それは邪馬台国がそこにあっただろうということにもなりませんか?
それに、倭人伝では、卑弥呼のいる時代ですから、女王国の東、海を渡る1000余里とある。筑紫、筑豊地方に女王国があったなら、そういういい方はしない気がします。
それから国東半島は国の東で、その国は西にあった。つまり宇佐付近でしょう。それから、筑紫、筑豊地域を治めていたのは弟の方ではないでしょうかね?
それに物部氏を初め宇佐近辺から東遷している氏族もいるようです。それから、卑弥呼と大和朝廷の系統とは血縁ではない気がします。台与から血筋かもしれません。
系図を見てそう思いました。参拝の仕方が特別なのは、卑弥呼も出雲もそれぞれに殺された経緯があるからでしょう。卑弥呼は熊襲の狗奴国に、出雲は天孫族による虐殺の歴史があるからでしょう。四拍は、「死を祓う」ということかもしれません。
トヨは魏志倭人伝では壹與(イヨ)と書かれており豊とは読めません。なので関係あったかどうかはわかりません。女王国は私も大分付近までの勢力範囲であったと思ってますが、魏志倭人伝の邪馬台国が宇佐なのか大分なのか日田なのかよくわかりません。尚、卑弥呼は筑紫平野に居たと思ってます。壹與なら可能性はあると思います。女王国として考えれば筑紫平野も含まれるのですから。物部氏の東征は複数回行われたと思ってます。最初は3世紀の邪馬台国の時代に天孫族の饒速日が行い。筑豊・筑紫の豪族が中心です。神武は3世紀後半だと思います。日向・豊の国の豪族が中心かと思います。なので神武天皇は天孫族の亜流かと思います。卑弥呼は殺害されたとしても狗奴国からではないでしょうか。
@@和田耕一-y8f いや、豊前、豊後の豊は中国人陳寿が当てた「壹」とは違うと思いますよ。邪馬台国も「台」と皆言ってってるように、「壹」は「臺」のはずです。
邪馬台国(邪馬臺国)を「邪馬壹国」としたら「ヤマイ国」になり、そんな国はないと思いますよ? だから、「壹」ではなく「臺」のはずです。だから、「壹與」ではなく「臺與」のはずです。陳寿は間違ったか、わざと「壹」にしたのだと思います。「邪馬壹国」を「臺」としたら、自分たちの魏国の「臺」と等しくなり、奉ったことになり、「邪馬」と同じように、卑しめて言ってるように、倭国の「倭」もこれは「小さい」という意味であって、一種の卑しめであり、単なる「壹」に過ぎない国としたかったのだと思います。下の方でも、ここの動画主さんが、豊玉姫の東遷を述べているでしょう。だから、この日本語読みの「豊」「臺與」でいいと思います。それから狗奴国は、熊襲でよくないですか? 以前は、熊野地方の「熊野」のことかと思ったこともありますが、今はやはり「熊襲」でいい様に思います。
@@bluemoutain5675 「臺」の字は皇帝に使われる字で確かにおかしいと思います。でも陳寿が敢えて変えたのなら何故読みの異なる「壹」を持ってきたのでしょうか。隋書の俀(倭)国伝は邪靡堆(ヤビタイ)国と表記されており音から言えばほかの字でも良かったはずです。当時はやはり「ヤマイ国」だったのではないでしょうか。通説は臺與(台与)が正しいと改めますが意識してながめると、二行に三回も壹與(壱与)の名が現れています。この全てを伝写時に誤ったものと扱い、倭人伝のどこにも見当たらない臺與が正しいとするのは無理が多すぎます。まして、その一、二行後に「臺に詣(いた)り…」という臺が正しく書き分けられているというのに....つまり「ヤマイ国」と「イヨ」が当時の正しい読みであったと思われます。従って「豊」と「イヨ」を単純に結びつけることはできません。(邪馬臺国)は大和王朝と結び付けて後世に書き換えられたと思われます。私は「壹」は山に囲まれたぽつんと開けた盆地のような地形を表す意味で使ったのではないかと思ってます。狗奴国も熊襲かどうかは不明です。確かに音が似てるのでそう思える節もありますが何とも言えません。それに熊襲は元々熊本付近に住んでた人が南下したとも考えられなくもありません。
@@和田耕一-y8f 「臺」を「壹」と間違えた可能性が低いのなら、態と変えたか、初めから「臺」を使う気などなく、「壹」を使ったかです。
というのは、「壹」の字は、「トウ」と読んだ可能性があるからです。今の中国人は、昔の漢字の読み方がどうだったか学者にも分からないようです。
そのように考えると辻褄が合います。「臺」の字も「トウ」と言ったり「ドウ」と言ったりします。「タイ、ダイ」は今の読み方です。
それから、狗奴国ですが、おっしゃる通り、熊襲とは限りませんね。前にも述べた、熊野か、もっと上の方かもしれません。「クナ」とつくところがあるようです。
ということだとすると、邪馬台国、女王国は、近畿地方にも及んでいたことになりそうです。一番問題なのは、出雲の存在です。
ここは、九州の台与の国と大昔から文化的にも武器的にも纏まっていたと言います。大分分かってきた気がするのです。今、その辺を考察中です。(笑)
いつも楽しく拝見しております。投稿は初めてです。
仮説に関しては賛成の時もあり反対の時もありますが前方後円墳北部九州発祥説は一番賛同できない説となってしまいました。
①箸墓をはじめ纏向古墳群にある前方後円墳は吉備の影響が一番感じられる(北部九州の影響は見られない)
②箸墓以前につくられたと推定できる前方後円墳の原型(3世紀前半)が纏向古墳群にはある。
③もし北部九州にある前方後円墳が発祥ならば卑弥呼の死後すぐに王墓より巨大な墓を北部九州内に造ったのでしょうか?卑弥呼の墓はなぜそんなに規模が小さい古墳(祇園山、平原1号墓等)なのでしょうか?死亡時期にそれほど大差はないと思われますが?文化に違いがありすぎます
この点はどういう解釈なのでしょうか?気分を悪くされたらごめんなさい
コメントありがとうございます。
気分を・・・どころか、反対意見、質問等大歓迎です。
納得できないポイントを箇条書きにして頂けるなんて、最高のコメントです。(本当です)
私の見解を述べてみます。
①纏向古墳の前方後円墳で吉備の影響がある部分は、特殊器台/特殊壺だけだと思います。
突然始まる銅鏡埋葬習慣は吉備にはありませんでした。
②ホケノ山古墳は今では箸墓同等期とされていますし、勝山古墳は那珂八幡古墳(福岡市)と同時期だと思われます。石塚古墳は諸説ありよくわかりません。
③卑弥呼が死んだ直後からまた騒乱の時代になります。大きな墓を造れる時には思えませんし、誰にもそんな動機は無かったと思います。
ご返信ありがとうございました。
なかなかすべてが解明できてない部分があるので推測しながらになるので難しい部分ですね。
個人的には邪馬台国は北部九州、畿内と互角だと思っています。
ようは奴国、伊都国を邪馬台国時代にどこが支配していたかが大事かと。そういう意味ではいつかの回で奴国に畿内式土器が流入している点も気になりますし前方後円墳がどちらが発祥かは非常に重要だと思っています。考古学者に畿内説が多い理由の一番が前方後円墳発祥がヤマトだと考えているかたが多いからだと思っています。
これからも楽しく視聴いたしますので次回も楽しみにしております。
確かに近畿からの庄内式土器が奴国に入って来るのですが、それ以前には吉備式甕も入っています。
支配云々との関係性はありません。
また考古学からみると古墳時代の前の大和には、王権と言える強い勢力は無かったので、北部九州を支配することは出来ないと思っています。
土器があるからすぐに支配下にあるとは思いませんがなにかしらの交流はあったのではないかなと。
畿内に邪馬台国以前から強い王権が無かったのは同意見です。
ただ纏向はあくまで地理的に優位性があったので出雲、吉備、丹波、尾張の勢力等が共立して卑弥呼をたてた。近江の伊勢遺跡が突如として消滅しその直後に纏向遺跡が出現するのも繋がります。初期纏向遺跡はあくまで女王がいる宮殿というだけで経済センターはそのまま北部九州その他が牽引。纏向はいわば卑弥呼の呪術に依存した宗教都市、政治的都市だっただけという説もあります。
もちろん鉄器等の状況をみれば北部九州説は優位ですね。そこには異論はありません。
私はまだ邪馬台国初心者なのでこちらの動画や他の動画、または色々な意見の書物を見ていこうと思っております。現状では自分は五分五分で決めきれません。優柔不断です。
でもこちらの動画は大変参考になります
色んな事を調べながら自分なりに推論を立てていくことは、我々素人にとって大いなる楽しみですね。
そんな推論の中でこの時代のこと、特に勢力図を考える時に重要な観点が鉄と銅鏡だと思っています。
王達にとって自分の国の隆盛には鉄製品の確保が重要でした。日本にはまだ製鉄技術が無かったので半島から鉄素材をいかに調達するか・・、なので半島の利権確保が重要でした。
また王達の個人的な嗜好として漢鏡などの銅鏡(北部九州も畿内も共通)は、一朝一夕には入手できません。
勿論他にも要素はありますが、この二つを説明できなければ空論になってしまうと思っています。
突然ですが、 旅を続けておられますか❓️
最近、阿波の情報が入りました。剣山ー阿波。 興味が持てるようだと おすすめします。
全てが びっくりびっくりびっくりです。
5角の下はどうなのか?
江戸時代も解るが吉野ヶ里の神社後の話は沸かしました。結論は調べてからかな🤔
阿波にも興味があり、この宇佐方面へ行く前には四国をほぼ一周して、阿波にも行きました。
数回前の動画で2本アップしていますので、よろしければご視聴下さい。
@@これはどうでしょう 理解。丹砂を空海氏が探索 までは理解していましたが、阿波派の解説にはビックリです👍。近畿はエジプトのピラミッドの地 くらいに思っていた 事も解決。 九州では遠い。近畿はあり得ない。貴殿達阿波の旅編 後で、見させて頂きます。淡路島編は既視。淡路島が類似字で川州にあるとか。阿波は熱いですよ‼️
私は逆に解ると熱が冷めた感じ。
100余歩(75~100m)、円形墳等 ビックリ。円形と言われているのに何故前方後円を論じているのかも不思議でした。
阿波説の方々の活動も熱いですね。
その原点となる活動は知っていますが、言わぬが花・・・ですね。
そこは伊都国であって邪馬台国ではないと思いますよ。おそらくですが、伊都国王の娘が敵対国の出雲の地方拠点である大和(邪馬台国)に斎王とは名ばかりの人質としてとられたんだと思います。それで戦いが収まったとともに伊都国は九州をまとめる長官として生き延びたと思います。墓は故郷の伊都国に作ったのではないですかね。その後の大和と九州の力関係から察するにこちらの方が説得力ありだと思う。卑弥呼の弟はそのご天皇になっていくけど、ほぼ出雲や大物主、伊勢、賀茂などの奴隷でしょ。新羅を攻めろと神託が下れば嫌でも攻めないといけない。逆らえば殺される。何か禍がおこれば大物主や伊勢大神の祟りだと言われて厚く奉らされる。最愛の娘を奉仕させられる。これが奴隷でなくして何なのだろうか?
大和の地に当時の中国とやり取りをしていたような考古資料がほとんど出ていないので、邪馬台国は大和ではないと思います。
@@これはどうでしょう 鏡とか結構出てなかったですかね?
鏡は大量に出ていますが、古墳時代に入ってからです。
@@これはどうでしょう 3世紀に鏡を集めて死んで4世紀に埋められたんじゃないんですか?
他の地域と違って、大和だけ4世紀の墓に埋納されています。
その通り、卑弥呼は、九州にいたはずだ!
ありがとう。
そうですね!
邪馬台国と大和朝廷は別の国であると思いますね。
その通りですね。
@@これはどうでしょう でも、邪馬台国(ヤマト国)の名を取って、大和(ダイワをヤマトにした)国というのは、完全に別の国だとは思えません。
何らかの関係があります。東遷説も考えられるというか東遷は間違いないです。そうすると、繋がってないはずがありません。
@@blueskyjet5321 さん
私も繋がっているだろうと思います。
さらに、筑紫平野近辺には、山門、大和(柳川市や佐賀市に)という地名があります。
奈良も大和という地名ですが、それらのどっちが古い地名なのか、調べたことはないですが。
私は宇佐神宮の広い敷地の中に邪馬台国が隠されている、いや邪馬台国を隠す為に宇佐神宮が建立されたと考えています。大和政権は邪馬台国の存在を日本書紀にも古事記にも記載出来ない不都合があったのでしょう。もちろん、宇佐神宮の第二の御殿こそが卑弥呼の墓。上宮は巨大古墳の上に建てられていて、第二御殿の下から石棺も発見されているのは周知の事実ですが、それには触れない風潮もあるようです。宇佐神宮は謎の神宮。触れてしまえば日本の歴史が変わってしまうからではないでしょうか?
それと現在は豊前、豊後を含めて大分県を豊の国と称していますが、そもそも豊の国の前が豊前であり後ろが豊後です。そうすると、豊前の始まりは(近い場所)中津市であり、豊後の始まりは国東半島の付け根にある豊後高田市です。その中間にあるのが宇佐の地です。
国東半島は文字通り国の東にある半島。そうすると半島の西に国があったということです。つまり宇佐こそが豊の国なのです。豊の国はひょっとして台与(とよ)の国?
私自身はかって宇佐神宮の敷地内に邪馬台国があり、宇佐の奥の院である安心院に普段は卑弥呼が住んで神事を司っていたのではないかと考えています。安心院は調べて貰えば解りますが古代宗教の跡が沢山残っています。安心院の旧家は昔から家に天照大御神をお祀りしているようです。
宇佐神宮は謎の神宮ですね。
旅すがらで、浅い知識しか得られませんでした。
発掘しよう、ということにはならないと思いますが、それはそれで楽しみを残してくれているとしましょう(笑)。
安心院ではワインを飲んだだけでした。
東征とか、妄想でしかないことに早く気づいてください。
妄想することから、ひらめきが生まれるんですよ。
神武東征はあったと思います。内容がリアルです。
@@blueskyjet5321 元ネタはあっても、それは『東征』ではないという意味です。
だいたい東征なら本拠地の宮崎を捨てるのはおかしくて、宮崎本拠地のまま東征するのが当たり前です。つまり他勢力に本拠地を追い出されたのです。そしてそのまま岡山(あるいは神戸)の地まで”戦わずに”移動しています。東征でもなんでもない。でもってその東の地はウチらの土地じゃないから好きにして良いって言われて、大阪で戦って大敗しているわけです。でもって更に東に行こうとして和歌山沖で船が難破して移動をあきらめ、その地に住み着いています。
これら記述されていることを無視して、これを『東征』と呼ぶのは間違いなのです。
@@yoshihiro_sugimori だとすれば、追い出したのは熊襲?ってことかな。ところで、そのことは何に書いてあるのですか?
神武系が東行したのは確かですね。ただ、神武天皇はニニギノミコトの子孫でしょうから、東行して大和朝廷を作ったのなら、
やはり東征ではないにしても東遷にはなりますよね? それから、同じ系統の饒速日は、もっと早い時期に東行、または東遷してますよね。
これは東征になるかもですね。物部氏も、多分その頃に共に北九州から東行してます。どうですか?
物部氏だけではありません。いくつかの氏がともに東征、または東遷してますね。東征、東行または東遷は何回もあってるってことですね。
@@blueskyjet5321 いやだから、追い出されて、北九州から岡山の勢力に保護されて、行くところなくて仕方なく大阪で戦って負けて和歌山ですよ。それのどこが東征、どこが東遷、って意味です。逃げ去って東に流れ流れて流れ着いたちゃんと言いましょうってことです。分かりませんか?w